エッセイ

2009年02月16日 石 67 追悼の碑  6

栗本二郎は、島出身で数少ない社長の1人。熱海の油屋に婿殿に入るが、社名も栗本を使い、苗字も栗本で通す。島でガソリンスタンドを建てるもアドバイスし委託経営もしたが、漁協に引き継いだ。長男節夫が島を守り、4兄弟で熱海の油屋を盛り立てた、南郷の新松爺の山を引き取り、義兄の幸雄や、ヒッピーに開墾させたが、余り成果は上らなかった。南郷の家は、南郷山荘とし民宿二郎丸の別館として、ランプの暮らし朝の日の出、昔の南郷の暮らしを体験させて南郷を盛り立てた。平成7年12月亡くなるが、山荘の庭に、節夫、虎夫の兄と弟で、栗本二郎は、南郷の開発に尽くしたと碑を建てた。意思引き継ぐ者の無く、山は村所有となった。


2009年02月02日 木 58 ご成婚記念の松

平成の天皇が昭和34年4月10日、美智子さんと御成婚した。記録には何処にも残っていないが、昭和25年生まれの小学生が4年生の時記念に、校庭から稲根神社に上る階段の両脇に、松の苗を何本か植えた。向かって左の松は1本は、日当たりも良くかなり大き木なったが、保育園、センターが作られた時伐られた。今は右側に1本15cmの太さで、やっと生きている状態だ。この坂は8月のお祭りには、お神輿を鳥居をくぐるまで何回も、上ったり下ったりし、若者の足のステップに利用されて、枯れたものも有ったが、残った1本はもう直ぐ50年になる。



2009年01月19日 木 57  神の道の松

鍵取明神が1月20日から25日にかけて、歩く道の各所に松が植えられている。参道の為に植えられたかは、確かで無いが、道々に植わっているのは確か。鳥の尾、草祭りの神、お番の尾、検見先平、つかなが坂、ボロ沢洲崎降り口、大船戸川入り口、針山が坂とかなりの松が、植わっていたが、昭和30年代の台風で折れたり枯れたりして、今は少なくなった。赤沢神社からコリトリ川までの坂の途中に、1mも有って幹も真っ直ぐ伸びた松が、一本立っている。5mほど下に叉同じ太さの松が、赤沢神社を向いて倒れている。明神様や参拝の人達が、祈りながら登下りしただろうな。何十年も夫婦松いたのに、引き裂かれて何十年も亡骸を見ながらも、歩く人願いが叶う様に見守る松


2009年01月18日 木 56 60年ぶりに合った椿

亀生丸遭難で、船足を軽くする為に捨てた積荷の中に、神の尾墓地で伐られた椿の大木が有り、この木が神木でないかと言う事は書いた。正月6日節夫兄いが亡くなり、7人で送る事になり、墓を掘り出したら右端に、木の根が出てきた、2mほどの墓だが、3分の1は木の根で、手を入れた跡が無い。根は15cm程のが2本奥へと伸びていて穴と成り、中身は腐葉土状になっていた。幹は隣りのアメリカ爺いとの間に有り根からして1m程の大木のようだ。昭和23年2月嵐に遭った時は、生後100日前で何も覚えていないが、節夫兄いの引き合わせで、60年ぶりで椿の木に再会する事が出来た。艀作業、議員活動島の為長い間ご苦労さん、ゆっくり休んでください。


2009年01月10日 石 66 追悼の碑  5

南郷開拓にあたっていた栗本新松は、年を取り、後を引き継ぐ者も居ないので、故郷を離れる事にした。土地を島出身者に託す事にしたら、該当者に、42番地出身で、熱海で油店を経営している、栗本二郎社長と話がまとまり、300万で引き取ってもらい、里に移った。社長は、江戸時代より多くの先人が、この南郷の地を開拓してくれた努力に感謝し、平成3年10月南郷を見守る、里が道の地に観音を安置した。名前は、御蔵護島慰霊観音と命名した。建之者は、島を守っている、兄貴の節夫、弟二郎とし、姉のナリ子、会社の吉田氏の名前も刻まれている。新松、おとみ夫婦は、この碑が建られたのは知らない、きっと知れば、涙をながして喜ぶ顔が、浮かんでくる。


して喜ぶだろう。


2009年01月07日 石 65  追悼の碑  4

御蔵島村3番地、戸籍番地だが此処に徳山耕作が住んでいた。明治18年生まれで、大正7年3月22日34歳で亡くなる。島の番地は、明治20年ごろ付けられた様で、神主宅を一番地に、神社を向かい右周りで付けられているのに、5の先に3番地があるのが不思議、番地を決めた経緯を知りたい。耕作さんは、浜役の下で働いていたが、作業中西の突風に会い、艀は飛ばされ徳利根にあたり、船と岩に挟まれて亡くなる。亡くなっった根の見える、ならん川の自分の山に、兄貴隆三、友人作蔵が昭和2年3月23日に碑を建てた。親父が亡くなり、子供も亡くなり、悲しくもこの一家は、島の土にもどった


2009年01月05日 木 55 杉の植林

平成16年5月17日89歳で亡なった吉五郎兄いは、元はロクロ使いだが、炭焼、農協の参事、共済組合の役員、山師で丸太を、索道で出し、丸鋸製材所も四箇所作り、角材、板材などを販売していた。最後は自宅でロクロを挽いたり、ヒットした金網セイロを作っていた。爺が杉の植林をする方法が人と少し変わっていた。一般の植え方は、植える土地を、綺麗に草を刈り苗を植える。爺のは、5mもある雑木の山の中に苗を植え、周りの木を1,2本切って置き、1,2年して叉1,2本、周りの木が杉に当たると木を切り、これを繰り返し、杉が、5mほどに伸びたら周りの雑木を切り、杉林にする。この方法は、忙しい人か、ものぐさの人の植林方法、




2008年12月30日 石 64 役目を終えた神

昭和43年都道が、八郎畑まで延びたのと平行して、黒崎方面の黄楊材を、搬出する為林道工事も始まった。一番地から卯辰川までの中央線の工事で、島で一番最初に作られた、上の町井戸が、拡幅でかかり取り壊された。31年には、村内簡易水道が完成し、本来の役目は終わっていたが、本管を引き込み、防火用水や、時間給水の水溜めの井戸として、使われていたのだつた。その井戸の脇に水神様が祭られていた。井戸の無くなった今も、石垣の中の祭壇に座って居る。近くに水が無いが、御蔵島の水の神様にして、ここに何時までも居てもらおう。後の中の町、下の町の井戸も、道路拡幅で取り壊されしまった。


2008年12月27日 生活 40 竹下の骨

浜の船揚げ場への避難路が、西川からシモダ越しを経て竹下の沢を下り、崖を100m降りて船揚場の上に出る道が、昔からあった、竹下は滝下とも言われ、沢の奥は岩盤が連なり、道を作るのも大変だった。その岩盤の洞の中に幾つかの骨が有った。何時の頃かわからないが、地主のお婆さんは、かわいそうに思い昭和33年4月2日改葬して、隠居の墓に埋葬した。島の人なのか、島へ流れ付いてここまで来て亡くなったのか、船揚場からは、道が有り村は直ぐそこなのに、なぞの多い骨だ、でも神の尾墓地に入り、名は無いが、無縁墓地でなくて良かった。


2008年12月24日 生活 39 ウト道、オタ道

ほんの少し前まで、村は山の天然の黄楊を切り、財源の一部にしていた。村の林務員が、山踏みをして男衆が木を伐る。島は平の山は無い坂なので、重い黄楊を背負い滑ると事故につながるので、一回で終わる山はウト道を作る、女の人の歩幅で千鳥足状に3cmほど出して木杭を打ち込む。何日も通う場合は、オタ道を作る、歩幅はやはり女の人の足に合わせる。50cmで、太さ7cmぐらいの丸太を、少し土に埋め込み転がらない様にし、両脇を杭で固定し、平行に坂が終わるまで並べて作る。オタ道は島に欠かせない、御山などの道はオタ道。雨が多いのでオタ道は、水の流れをダム状に、食い止めて、いっきに流さず山を壊さない。


2008年12月23日 生活 38 要らなくなった旗 2

大正時代御蔵島青年団は、産業、体育、公益、敬愛、慈善など多くの目標を持って組織され、島の発展に寄与していた。会誌愛郷などを発行し、若者の生きる道を盛んに語り、実行していった。多い時は70人もの団員を数えたが、年齢制限30歳、戦後島外に出たりして、若者が減り自然消滅の状態で無くなつた。最後の団長は宏和兄いだった。昭和の終わりごろ、誰が預かっていたのか、処分に困り役場に持つ来た。色あせているが牛皮の箱の中には、漆塗りの竿に桜の飾り、旗は刺繍織りで、縁には金糸が周つていた。30年以上若者を先導してきた旗も、引き継ぐの者い無いまま、見えなくなった。


2008年12月19日 生活 37 要らなくなった旗   1

明治の日露戦争から始まって、多くの島の若者が、戦争にかり出され、悲しく戦死しても遺品も戻らないが、葬儀をして、魂は島に戻る事が出来た。島でも戦争が激しくなると、在郷軍人会御蔵島分会を組織し、竹やり訓練などを一般島民に訓練した。旗は旭日旗。下部に在郷軍人会御蔵島分会と入り、儀式に時には、旗手が先導した。最後の分会長は栗本済。電信電話公社で働いていたが、昭和22年勅令第1号で、公職追放者三宅47人御蔵5人いた内の1人となった。旭日旗は大事に仕舞って有ったのを、息子に頼んで貰った。戦争を知らないから、飾って置けるのかなぁ、、


2008年12月17日 生活 36  炭焼 9 道を流れた酒

炭焼仲間でも籐吉は、焼く山を前金で払ってくれるので、村人は焼かせてくれと言われれば、山を焼かせた。大川の一宇山で焼いていた、雨がつづき村に下りて、仲間とバクチに明け暮れている、業を煮やしたキンさんは、一斗カメを持ち出し、釜の前から村へ下る道へ、カメの酒を流しこぼした。酒は村を向かい流れていった。これでも懲りず、雨が続くと、村へ下った。バクチで、釜を取られた人もいたと言う。これでも連れ合いが、しっかりしていたので、家を二件も作り残した。


2008年12月16日 生活 35  疎開小屋

たびたび艦載機が、島の近くを飛ぶ様になり、爆弾も20年5月19日には、松が下に落とした。子供達も父母が付いて学童疎開で、秋田の金足村へ旅立った。村の各家でも、近くの小川、タンタイロ、大川,西川の森の中に三坪程の山を造成し、丸太小屋を作り、生活した大きな大木の下で、空からは見えなくて隠れるには、良い場所を選んだ。今山を歩くと、三坪ほどの平地が所々にある、礎石が無いので、丸太を直接建てていた。昼は働き、夜は小屋の行く生活、たいした空襲も無く、終戦になり1,2ヶ月の疎開小屋生活で終わった。


2008年12月15日 生活 34  防空壕

昭和20年に入るとアメリカの艦載機が島の周りにも、飛ぶ事が多くなった。国の奨励で各隣組や個人でも、各所に、平地に穴を掘り上に木を並べ、草木を載せたのや、山を掘り横穴方式のが各所に作られた、中でも村で向かいが尾に掘った防空壕は大きい。島史によると、20年7月23日に掘り出し、8月15日に堀終っている皮肉にも終戦の日に完成し、使う事が無くて良かったが、何回か飛んで来て、爆弾を落としたり、機銃掃射もしていった。穴は山の中腹で、両方から堀真ん中で奥に掘り込んだ。T文字形で入り口2m、向こう側まで30m、奥に10mぐらいで、村中は入れたか。平成11年都道拡幅で、両口共石垣で蓋をしてしまった、怖かったが、唯一のこうもりの住処で、見に行ったものだが、今はこうもりは島では見たことが無い。



2008年12月15日 生活 33 炭焼  8

炭は島でもかなり消費された。椎茸の乾燥や、雨が多く、湿度が高いので、蚕を飼育して行くには、必需品で、何人か頼まれて焼いている。川田の発電所の上に有る釜は、大正5年斧吉兄いが、蚕炭を頼まれて作り焼いた。マアガリの草祭りの神様の手前の釜は、おと爺い、オツタン婆夫婦が作り、健三、喜十郎、重雄、健生と明治から昭和まで、改造しながら五人もの人に利用された釜は珍しい。この釜も、林道工事で、土砂を埋められ、入り口の部分が残るのみだ。緑の沢の山に白い煙が立ち昇る。やがてすっぱい煙が辺りを包み、煙も見えなくなった、もう止め釜は近いようだ。


2008年12月14日 生活 32 炭焼  7

昭和33年自山の登立に、釜の天井をあげる、炭の時代では無いと言われたが、親戚の女衆に長坂の土を背負ってもらい、炭焼数人に天井を叩いて上げてもらう。以来雑木を焼いて跡地に、杉、桧を植えた。釜が出来て、やむなくサラリーマンになってしまっったが、年数回は焼いた。釜まで、家から1時間もかかり、止める時は、夜中でも行って止めなければならなかった。釜は、続けて焼けば冷え無いが、休むと暖めるのに、2割も多く薪を使う。勤め人だから諦めた。以来30年も、大事にし焼いてきたが、定年したら体の調子が悪く成り余り焼けなくなつてしまったが、炭釜は、健在で、もう40年目だ。島でこんなに長く1つの釜を使った人は、多分この親父だけだろう。


2008年12月13日 生活 31 炭焼  6

昭和16年スリッパ材、枕木を家の沢一帯で切り、ソリ道を使い洲崎の浜から積み出した。その要らない枝の部分を牧野英夫が、洲崎の降り口の所で、釜二つで炭に焼いた。どちらも段々畑に作られた釜だが、左の釜は、平成6年林道家の沢線が開設され、終点の広場にかかり、道の下になってしまった。釜は天井も残り炭釜だとわかる状態だったのに、残念だ。右の釜の前は、ソリ道の終点で、ここから背負子で浜まで背負い下ろした。夏は島の海は凪がつづき、秋は北東の風で、洲崎は凪で、艀は、玉石浜に引き上げて有った様だが、台風で2双も流された記録も有る。浜には、山を四角く切り取り、貨物置場にした所がある、今は玉石が無くなり4mほどの高台になっている。千両箱と言うが、意味は、掘った形か、お金が千両架かったか。



2008年12月12日 生活 30 炭焼  5

昭和39年最後の釜を作る、場所は大仏の仙松爺の元釜の跡に竹男兄いがスポンサー。作り親方はベテラン幸蔵で、後は元炭焼。釜は煙突装置も大事だが、天井が大変、以前の天井土が有れば良いが無ければ、他の釜の土をもらうか、長坂に釜に合う土が有るので、この土を混ぜて使う。立ち木を立て、乗せ木し、ゴザを何枚かかぶせ、亀の甲羅のカーブに仕立て、その上に土を練りながらのせ、皆で足で練り固める。淵は厚く、テッペンは10cmほどに仕上げる、後は木鎚で滑らかに何日か掛け、火を入れて完成だが、何が原因か1回で、天井が落ちてしまった。平成になり、仙松爺の孫が耐火コンクリートで四角の釜を作り焼いているが、釜のそこを水が溜まるとぼやいている。


2008年12月12日 生活 28 炭焼  3

焼いた炭を出荷には、専用の入れ物が有った、畑の風除けに植えた馬草、八丈萱とも言い、古い二年草を枯らして、専用の折台で織る、高さ3尺長さ4尺のゴザを作る、年寄りの仕事で、家のおひょううんばあーは縁側で何時も編んでいた。このゴザを炭焼は釜に持って行き、端を結んで角し、炭を入れ両脇を枝でふたして出来上がり、これを背負子で村の倉庫まで2から3つ運ぶ。西の山から村を通り浜の倉庫まで、運ぶのは大変と、昔から竹下からは、非難用の道が有ったそれに長沢から100mほど、ウト道を仲間で作り、少し間だが利用した、竹下の道も、崖崩れなどで今は通ることは出来ない、


2008年12月11日 生活 28  炭焼  3

昭和の戦争が終わると、家の沢は立ち昇る炭焼きの煙でにぎやかになった。ほとんどの釜が前の時代の赤釜を、黒釜に作り変えて使った。幸蔵、昭吉、敏、善四郎、幸雄、節夫、斧吉、喜男、喜男兄いの釜は、大船戸川の淵に有り、台風があたり壊れて、トタンなどが散らばり、棚には、焼く前の炭木が半棚も積まれている、2回だけ焼いてやめてしまったと言う。善四郎兄いは、木を倒した時、婿木に架かり足を痛め炭焼をやめた。この沢で最後まで焼いた昭吉兄いは、一時代前この沢の親父の釜で生まれた、親子二代の炭焼だったが、昭和40年には、家庭の事情か持ち家2軒も処分して、三宅島で借家暮らしになった。親の籐吉、キン夫婦は、炭を焼く為に来てもらった人の1人だ。


2008年12月10日 生活 27 炭焼  2

昭和に入り盛んに成り、島内消費でなく産物しての出荷で、仲間で福島、高知、岐阜など時期はずれるが、炭焼職人を入れて焼いている。南郷も観音尾に保管小屋を置き、ソリ道が2ルート伸び、オスギ川から観音尾と、ワカイチから観音尾どちらも200mほどだ。相馬、大塚、杉山、清水、鈴木、江村の人等が競って焼いた、中でも鈴木さんの釜は、黒炭釜で早く取り出す為、釜の周りに水を通し冷却装置が有り、200貫も出す釜で、観音尾農道が釜の上を通り無くなった。島の28戸の実力者の1人は、ソリ道に小石や枝を置き嫌がらせをたびたびした。炭焼を入れた人は、仕打ちに嫌気がし、島を出て行ってしまったが、他の地で、成功している、惜しい人を出してしまったな、、、、


2008年12月09日 生活 26 炭焼  1

炭焼の技術は、江戸時代平六に始まって、多くの人が教えている。明治の中ごろ、大船戸川の上流に斉藤と言う人が村山に入り、赤釜で白炭を焼いた。今のモノレール小屋の辺り、この一帯を斉藤山と呼んでいる。三宅の阿古の人らしい。炭を運び出すのにソリ使った様で、ソリの道が洲崎の降り口まで作られて、この道がメエインルートで700mほどで、坂の急な所は40度も有り、大船戸川も渡っている。枝道も2ルート作られた。この時代は、洲崎の浜に下げて船で積み出した。失敗作の炭か、途中で止めたか、釜の前に炭が山と積まれている、釜が幾つか有る。今見ても腐らないから、立派な炭だ、この一帯は後年黒釜に変えて、焼く人がいなかったから、斉藤さんの焼いた後が残り、ただ周りの木が変わっただけかも知れない。


2008年12月07日 生活 25 大川

島の家々は、大川の沢の沢尻にかたまって建てられている。大川は、メンバタの直ぐ下の大川水源を源流を元とするが、水道水に取られているので、雨が降らないと上流は水が無い。下では所々で、少ないが湧き水が見える。支流が二本有り、上道が頭付近から紅葉が川が、疎開小屋でぶつかる。左に曲がりながら下ると砂防ダム。ここは以前は本流と、二又川と別れていたが、二又川は出口部分しか作られなかったので無くなった。伝馬池、田母の池が有り、ここから卯辰川となりさらに左に曲がり、作られた水路ながれ、川尻で、支流の西川と会い滝を下り浜の玉石に消える。昭和54年8月29日の大雨で、沢は幾つもの崩れが入り、自然の山が、砂防工事で、人工の沢になってしまった。


2008年12月05日 生活 24 自分の土地に置け無い地主神

島の28戸の家で地主神が、無い家、他の家の土地に置いてもらっている家も有るが、この家の話では、昔は隣しかも兄弟で暮らしていた。兄貴の家の神山は荘厳で立派なので、置いてもらっていた。時代は流れて、当主が、置いてもらっていた地主神を自分の土地に安住の地を作り安置した。しかし地主神が自分の土地に来てから、当主の具合が、余り良くない。当主は神が自分の地に来たせいでは無いかと、思い頼んで、元の祠に戻してもらったと言う。今は、神のいない神屋敷が有るが、八重の椿が咲き誇る。村の真ん中の通りには、神様のいない土地が何軒か見受けられる。実際は、直接聞く事が出来ないので、本当の事は不明。


2008年12月03日 石 63 流された井戸

平成7年9月17日台風12号が島を襲った。風67m、雨800mm山の至る所が崩れた、その崩れの一つが、上横沢の尾根か舟木山の平まで崩し、奈良ん川が枝で詰まり土砂が都道を流れて、村の中まで流れ込んだ、この崩れで、昔から使用していた水源の水が出なくなつたのと、昭和20年4月13日の取り入れ井戸と、昭和32年落成の井戸が壊れた。この崩れは山の表土と立ち木が主で、岩石が少なかったのが幸いした。水道の水源は、この御山三水源はもう予備で、大島分川がもう主水源だったので、水道には困らなかった。その後行曲沢川水源は、資材をヘリで運び、物凄いお金を掛けて整備したが、この舟木山水源は、忘れ去られた。


2008年12月01日 生活 23 錨

錨を引き上げる。艀作業も艀を所定の位置まで引き上げて終わり、最後に沖の錨を取りに行く。やはり柱を出し泳ぐが、凪なら1人、波なら2人で泳ぐ。32kgの錨を6mも水面まで揚げるのは、コツが有る、引き上げ様のロープを柱に上から1回巻きつけ、木場の角乗りを水面でし、ロープを手繰ると、錨は、水面に揚がって来る。これを柱に固定し陸の人に引き上げてもらい、作業は終わる。40年代には、錨の位置に固定の錨を入れて、ロープだけ結べば良かったが、台風などが来ると浮ロープを切ってしまった。今は、足ひれ、スノーケル、ウエットスーツが出来、昔の若者に貸してやりたい、島を出る人も少なかったろうに。


2008年11月30日 生活 錨 2

錨を使う。艀のオモテには立つと言う柱が二本、後ろのともにも二本有る。オモテの立つに錨の尻手を一回巻きつけ、別のロープで外れない様に縛る。船の中を通りトモの立つに掛け、丘のかし杭に巻き古老が尻手を持つ、トモ立つの片方には、ブレーキ用のロープが進行方向の反対のかし杭に2から3回巻き浜役が握り、ロープ送りで1人付く。波の無い時を見て、やれの合図で、オモテの巻きを外し、若い衆2,3人で尻手を引き、何人かで船を揺する、スラと台に有り支点が3,4点で重くても楽に動く。スロープを滑り錨ロープを頼りに、沖にで、トモロープを、今度の引き上げ様に、錨のロープに結び、錨ロープも外して本船に向かう。引き上げる時は、トモロープに女衆が20,30人付き波うち際まで、引き付け、後は,昔はロクロ2丁掛けで巻いたが、最近は、エンジン巻き上げ機だ。昭和40年3月19日錨ロープのトラブルで、1人の犠牲者を出した。


2008年11月28日 生活 21 錨 1

錨を効かす、若者は浜役に、頼むと声を掛けられると泳ぐ支度にかかる。杉の五寸角、長さ二間進み易い様に両端は三尺ほどスライスして有る。この柱を波打ち際まで運び、八貫の錨を浮き用ロープで、柱の中ほどに縛り、尻手は一寸二分の麻ロープ。柱の前と後を二人で玉石浜を、かずき泳ぎだす。尻手ロープは沈むし浪を受けるので、中に二人送る人が入る。浜役の手合図で行き先を修正し、落とせで、柱より浮きロープを解いて玉石の上に落とし、陸より引いてもらい、確実に錨が効くを確認して丘に戻る、波の高い時は、波に戻され何回もやり直す事も有る。この作業が出来なくて、島をやむなく離れた若者も多い。昭和57年8月6日定期船弥栄丸が、桟橋に接岸し、数百年続いた作業も終わった。


2008年11月26日 石 61 光背の有る石仏

南郷への旧道で長坂を下り切った所に、尺角の台座に蓮の花、それを台に右手に錫杖を持ち、左に桃の実を乗せたお地蔵さんが、通うる人を見守る?、実は目は閉じているので、心で見守っていると勝手に解釈。島では峠、尾根などに安置されるのが多いのに、こんな暗い沢の中に、一体しかない立派な地蔵が、この地に何であるのか分からない。さらに下り、小島分川を渡ると目の前に、左に栗本悦三の炭焼記念碑、右にその炭釜、真ん中に周りを小石で積み平石を屋根にした祠。中には尺に満たないが、長い軸の有る蓮の花を持つ観音の様な仏、もう1体は桃を持ち、烏帽子をかぶる仏、屋根の重みで腹から二つに割れかわいそうだ。どちらも苔も生えず、青みを帯びて神々しい。川で流されたか、行き倒れかを供養したか、川の南郷側に有るのは、山からの帰りに災難に合っのだろうか、憶測で書くのが多くなってきた。


2008年11月23日 生活 20 北越の道

島は周囲が40から500mの崖で囲まれている。山から海岸へ下りる道は、タルボウ、白南郷、海老磯、ジロウド、ケンタキ、イド越、南郷ボロ沢、タカの子1本松、洲崎、大コクマ、竹下、オリンジ、そして北越の13箇所昔は有ったが、台風や地震などで崖が崩れて、今は、4箇所になってしまった。大正元年の地図に川田から北越の浜まで道が有った事になっている。今から20年ほど前に川田からセイジェナまで調べたセイジェナから先は300mもある崖でとても降りられそうも無い。川田の川から100mほど登り上った小さな沢に、土潟を切った階段が13段苔に埋もれながら残っていた。山の中は、カツオ鳥が、巣を作る時搔き出す土で、埋もれ何分からない、70年以上経って自然に戻っている。天保10年2月24日この道の何処かで、女の人が亡くなっている、崩岸信女、北越にて死すと記録に有る。



2008年11月23日 石 60 追悼之碑 3

1。青海碑。旧小学校の校庭の前、今の保育園の大石の横に、小学校同窓会有志が大正5年2月に、栗本惣吉氏の撰文で、本島出身の小学校長、徳山幹氏の追悼が有り、刻んだのは、石工の山田岩次郎。      2。神の尾墓地内に、昭和6年10月、次男民之助が広瀬定次郎追悼之碑建ててある。            どちらも故人のプライバシーなので、内容は転記し
ません。


2008年11月22日 生活 19 亀生丸による事故

亀生丸の船の事は以前書いた。亀生丸は御蔵島通いの貨物運搬をしていた。島に来たが、西の季節風が吹いて、荷役が出来ないので、風かげで待機していたが、米、タバコ、炭が無いと手旗で連絡して来た。作業をする共済組合の人は、風が凪るのを待って、船を港沖まで来させ、若者3人を頼み泳いでもらう。海軍下がりのゴム袋に、米、炭、タバコを入れて縛る。波の凪周りを見て泳ぎ出した、直ぐに大きな波が三つ来た、袋は陸に上って来た、波の去った後海面には頭が二つしか見えない、陸の人等は心配していると、泳ぎ出した六角根の岸に一人上って来た、胸が青くなっていた。貝を採らせても、魚を取らせても誰にも負けないと言う。他の二人は紐を肩にかけ、一人は首を通し体に掛けた、自信がそうさせたのか、21歳の若者昭和25年2月14日、先祖も海で亡くなり、曾祖父がミザナの地に、海上あ全溺死墓の供養塔を建ている。長男を亡くした母親の嘆きが、浜の玉石に響き、仲間の涙も波のしぶきに消された。


2008年11月21日 石 59 追悼之碑 2

萩丸遭難者追悼碑、昭和20年2月16日戦災。碑はお墓の一番上で戦災に遭った大島沖を向いて建つ。同じ碑が三宅には、阿古と島下に建ち、ここも多くの人達が犠牲になった。御蔵も9名の命が奪われた。この中に叔母と姪が乗っている、叔母は遺骨抱き島に疎開の目的で島に向かい、姪は学校が終わり島に向かった。叔母は東京で嫁に行き生活していたが、この事件で一家は全滅してしまった。叉53歳になるなる親父が一人亡くなった、その後6月25日には従軍看護婦の娘が軍艦に乗り本州南方で、19年1月14日死亡した知らせが届いた。戦争は悲惨なものだ。


2008年11月20日 石 58 追悼之碑 1

島には追悼之碑が6基有る。都道改修工事犠牲者追悼之碑、昭和35年12月T日花田で道路工事中落盤で、3名の犠牲者を出した。3名は30mも飛ばされ海岸まで落ちた、何人かは、土砂に埋もれたが助け出された。オリンジから工事が始まり最大の20mも崖を切り取る作業、ツルハシ、スコップ、ジョレン本当の手作業だ。この上部の旧道は水の湧き出て井戸が作られていた。雨の前で地盤がゆるんだのか、300立方mの崩れだ。ヘリポートは、入金が沢之尾根を
切り取り校庭を埋め戻して、以前よりは広くなっていたが、大雨の中をヘリは怪我した人を乗せて離陸した。当時の先生が作った花田エレジーが、現場を通る度に思い出させる。もうじき12月T日皆さんのおかげで、今は車で楽に通る事が出来ています。ありがとう。


2008年11月19日 生活 18 江島事件

正徳4年事件で光竹院は御蔵に流された、江戸通いの廻船がうまく運航出来ないの知り、元同僚の桂川甫筑に相談、甫筑は老中に談判し享保10年島民の願い通り江戸との直送の許可もらってくれた。238年後甫子孫今泉ミネさんが、名ごりの夢と言う本を出した中にみくら島ページが載っている。廻船の入る度に薪や椎茸を置いていく。帰りには薬などもらって帰る。椎茸は肉厚で美味しいく、今はとうてい味わえない味。それも三尺四方の大箱にぎっしり入れて運んで来た。時代も変わり家も小さくなり、置く所も無いと、断っても何回も運んで来た。実際置場を見て納得してもらった。初代から8代まで230年間も恩義を感じ送り続けた。島で三宝神社の祭神となっているから当然。


2008年11月18日 生活 17 稲根神社の擬宝珠

稲根神社拝殿、文政2年8月8日開眼した。入り口の欄干の手すりの左右に擬宝珠が有った。右には世話人徳山四良左衛門、広瀬長左衛門、氏子中。左には世話人徳山政次郎と彫りこまれていた。政次郎は多分当時の名主で無かっただろうか。この二年後、八丈島からの島替え流人の近藤啓次郎に殺されてしまう。折角立派な拝殿を氏子中と協力して、建てたのに神のご加護が届かなかった。182年経った2001年に建て替え、建屋は、使った材料は違っても、大きさは昔と同じに建てられた。名前の彫り込んだ擬宝珠は、型を取ると東京へ行ったまま戻ってこない、今取り付いているのは、重み、落ち着きの見えないギボウシ


2008年11月17日 花 5 サクゆり

為ともゆり、島ではサクゆりと言う。海岸の崖から御山の頂上まで島中に自生している。大正時代、岩松兄い等が中心となって、横浜植木を通してオランダに輸出していた。毎年かなりの球根を出荷したと言う。同じ時代に、沖永良部島からも永良部ゆり出して居たらしい。聞いた話によれば、サクゆりをベースに改良しカサブランカになったのではないかと、カサブランカは、サクゆりを濁らせた香りがする。一説には、バイキング号の船員が土産に、アメリカに持ち帰り、栽培し後にオランダに渡り改良されカサブランカなった。島にも、純白に黄色の線が入るのと、黒い点が入る花が有る。球根は10cmを越えれば分球してしまうが、、以前浜の崖で掘ったのは、1球で22cmの大きな球根だった。



2008年11月15日 石 58 小入金の墓石と常滑大甕

神の尾の下は、昔の古墳らしき墓が幾つか有る。崖に近い所は個人が段々畑にしたので、船木山の石が畑の隅に転がっているが、尾根には五箇所ほど石を組み合わせて墓の様になっていて、その中で尾根の頂上に有る石の中に大甕が半分埋まり、平らな石で蓋をしてあった。村で国学院大学に調査してもらうと、中に骨が少しと歯が二本ほど入っていて、常滑の大甕だと言う。11月東京で電車に乗ったら、張り紙で同じ大甕の写真が有り、品川の博物館で展示しているとあつた。見にいけなかったが、調べたら1500年ごろ全国に船などで運んだらしい、豊臣秀吉の時代触れば割れそうな甕が、大海を越えて御蔵まで来た、中にいる人は誰だ、dnaを調べてみたいなあ、、、、


2008年11月15日 土地 7  のぞみ坂

明治34年以前より利用していた村、御山経由川口の道と、新らたに里、松が元、のぞみ坂、みすま山山頂、蔵人原、明治川、桂川、奥の山、川口まで道を作り距離の比較をした。新道は平が多いが、距離が長い。旧道は坂が多いが距離が短い。村を出て松が元を過ぎ、大川を渡ると、真っ直ぐにみすま山に登る、この坂がのぞみ坂と言い、坂からは大川の沢、その沢尻に村の家々が一望出来た。大正時代まで利用されたが、桑材など、切り出しが少なくなったのと、道のりが長いので利用されなくなって行った。昭和40年代に道の調査をした。のぞみ坂は炭焼、黄楊山の下草刈りなどで使用され、道筋は残っていたが、みすま山から先は木や竹が伸びてわからなくしまった。


2008年11月14日 生活 16 美美庵の由来

栗本家のルーツは、栗本ウタ、4代目の敬久に長女が生まれた、ウタをもらって、美しく歌の上手な子に育つ様に美歌と名づける。次女は3月最大の別れ西が吹いて、海面が波で真っ白になり、青い所が見えない程風が吹いた。島の自然は厳しい、この物凄い波風を、美しいと見るような子に育ってと願い美波つける。もう一つ候補があつた名が南。4代目が暇に任せて、下里に台風で倒れた、丸太を使って倉庫を建てた。何か利用したらの声で、ホウロク焼の店にする事になった。船は長男と次男の頭文字を取り和寿丸なので、長女と次女の頭文字をとって美美庵。びいびいあんとは読まない、みんみんあんと読みます。美波のあだ名はみんみんと呼ばれていた。


2008年11月13日 土地 6 二つ有る字名家の下

字名で、二つ有るのはボロ沢、本沢、家の下。ボロ沢は地形が大きなボラ穴にどちらも似ているて、ボロ沢になまったようだ。本沢は、御蔵荘の辺の狭い範囲、ミザナの尾からイキマザワ尻に向かった小さな沢、大沢も二箇所有り発電所のある沢は大きいが、権田の沢の先の大沢は、幅10m長さ50mほどの小さな沢。老人福祉館の辺りは、集落の下で家の下は地形的に合っている。もう一つの家の下は、水池観音の下の狭い範囲だ。どちらにも敬久の土地が有り、先祖が間違えて呼んでいて、今の自宅の有る土地が、家の下なってしまったのではないかな、、


2008年11月12日 生活 15 神様とすり鉢

島の神様、稲根神社拝殿、鍵取神社迎えの神様、氏義神社と大規模な構えの神様には、なぜかすり鉢が供えられている。鍵取明神は、25日の朝村内を廻る時、鉄の下駄を履き、鉄棒を持って、すり鉢をかぶり家々を見て歩くと言い、朝早く神津島へ向かうが、これを見たものは、連れ去る伝説がある。鉢が迎えの神様に有るのは、何となく分かるが、南郷の神様に供えて有るのは、ナンだろう。迎えの神に有った鉢は、大きめで淵が欠けていたが、いつの間にか見えなくなった。何年かして、拝殿を建て替える事で解体した。すり鉢の行き場が無くなった、誰かが捨てようとしたので、受け取り迎えの神に供えた。コケは生えていないが、落ち着く所に落ち着いたように、自分で納得した。


2008年11月11日 木 54 護摩札

田屋号小林家には、成田不動明王の護摩札が1枚ある。奉修不動明王護摩供17日村中安全如意祈、 天保12年4月吉日とある。その他金比羅宮、奉二夜三日祈祷海上安全守護、明治2年7月吉日、本宮社務、この札は桐の箱で、金比羅の紋が入り、長さも3尺近くて立派な物だ。廻船が春と秋の二回航海していた言う。その間成田の不動様へ行ったり、金比羅様へ祈祷に交代で行っていた。船頭、乗組員の記録が無いが、山上屋号徳山家、七屋号栗本家、にも同じようなお札が沢山有るが、昔は、囲炉裏で薪を燃やしていたので、すすで文字が見えないのが多い。せめて年代でもわかればよいが。まだ乗組員が何人かいたはずなので、何処かの家の神棚に奉られているだろう。



2008年11月09日 石 57 長滝川の墓石

峠の草祭りの神様を越し下り込むと長滝川、川を渡ると道上に小さい墓石が有った。ここの先を廻ると大崩れ、広瀬丈之助、戒名転岳浄享信士明治2年6月11日亡雨の多い六月なので、名前からすると、この山の崖から転がって亡くなった様だ。入山印の家系人の様で、南郷の斧吉、オタマ夫婦が水、榊を供えていたと言う。崖がひんぱんに崩れるので、移設したらと言たら平成2年11月18日に、神の尾墓地に移した。戒名も明治3年でもらえなくなる、最後の方の人。草祭りの神様の手前に、石仏と石が江戸向きで安置してあるが、今となっては、教えてくれる古老もいない。


2008年11月09日 生活 14 海で死んだ男の悲しさ

男が海で死んだら、嫁は乳飲み子が居ても実家に戻る。例の1、初太郎は明治24年海で死んだ、息子文之助5歳、母サンは実家戻り、叔父の種吉が後見人と成り育てる。例の2、与右衛門が洲崎の海で死んだ。取り婿源七、取り嫁ナミで、栗本家に入り与右衛門の子廣吉を育てながら、自分等の子供をも育てる。廣吉の母サヨは実家に戻る。この仕組みは、女の人を、自由にし、叉嫁に行ったり、再婚できる様にしたのではないだろうか。親父のいない所で、兄弟が、増えたら話しにならない、昔の利にかなった掟だと思う。


2008年11月05日 生活 13 亀生丸遭難  3

悪い積荷が有った、墓地の中に植わっていた太い椿の木、細かくして東京出荷した。これより前神社の参道に有ったシンパク、学校の火事で枯れたのを、木挽きして浜に置いたら、波で流れたが、戻って来た、叉沖に流すが、叉戻りイルカに揚がってしまった。神仏の木は神宿ると言われていた。真鶴に着いて、履物と着物買い、濡れた物と変えた。それぞれに島に帰ったが帰れた事を感謝して、何人かの夫婦子供で、赤沢神社と、南郷氏義神社のお参りして無事を報告した。正義兄いは、八丁堀の直平で墨壷を買い裏に遭難した日を刻んだ。もし船が沈み皆亡くなったら、島はどんな変わり方をしただろう。昔から数えると大きな事故は、4回、助かった事を神にありがとう言おう。


2008年11月05日 生活 12 亀生丸遭難  2

積荷を捨てたので船は幾らか浮いたが、本柱に付いている横竿のロープが外れ、船が傾く度に触れ回り、背の高い正義兄いは、払われて海まで持って行かれたが
、船が傾き元に戻ったと、それを見ていたオタニんばあーは、正義は海にさらわれた、目をおおうったと言う。夜が白々と明け、風も少しは凪た、遠くにイナンバが見えた。船内の水を出しながら、自力で伊豆の真鶴に向かった。乗客が叉すごい、土地の争いで、裁判に行く、被告と原告、傷害事件で、裁判に行く、被告と原告、帯戸を作り三宅に納めに行く大工、装束を一式持つた神主、新船を作り代金持って船を持ちに行く組合長、生後80日になる男の子敬久だ。皆腹が減ったので、食い物は無いかと言ったら、幸蔵兄いが、ショボクレタ、こうじミカンを出してきた。幾らかの足しにはなった。 3 に続く


2008年11月05日 生活 11 亀生丸遭難 1

昭和23年2月21日島の臨時航路を走る個人船亀生丸は、炭、黄楊、島の産物、所要を持った島民14人を乗せて夕方大根港出港。100t余りの機帆船船員3名。港を出て直ぐ風が変わり、北東の大しけが船を襲った。船は傾き起きない、デッキの炭俵を縛るロープを船員がナイフで切ると、いっぺんに何百の炭が、風と波に船から離れていった。船は傾き、波は船内に打ち込む。船倉の貨物を、船員、船客で手分けして海に投げる。奥の船倉からは、抜荷した太くて素性の良い黄楊の木が何本も出てきた。これには皆あきれるが、一刻も早く船を軽くして起こさなければ成らないので、暗闇の中作業を続けた。2に続く


2008年11月03日 土地 5 甚三郎が鼻訂正あざ入が森

30年ほど前島の地図に土地名を落とした、その地図が私的に島の地名が分かる様にとして作るが、かなり広く利用されているが訂正が何箇所ある。島では単体で一つの山は、森または頭と呼ぶ。今甚三郎が鼻と呼ぶ地は、あざ入が森と言う、川口の沢を取り巻く西側の尾根で、上から御山、ひとめが石、双入が森、あざ入りが森、乙女峠、最後三左衛門山となる。あざ入が森から川口の川に向かい東に下りると、岩盤が垂直に30mも立つ西の岩。その下の斜面に小さな小山、川下から見ると、顔に鼻の潰れた様に見える、多分甚三郎は、鼻ぺしゃな人だつたのだろう。川口は、何時も霧が多い、沢の沖を船で走ると鼻から上が霧に包まれて、一段と甚三郎の鼻の潰れたのが、浮きあがって見える。


2008年11月01日 石 56 甚吾石

徳山正春兄いに聞いた話、正春、甚吾、巌の三人が、まだ若い頃御山を歩いた、仕事か遊びかは聞かなかった。島の地名は大雑把しか付いていない。平清水が頭を歩いていた時、小さな竹原で休んだ、眺めが良いので巌が原と名付けた、南郷を向かって山を下ると、途中に大きな石があり登って見ると美代が池やツブネが森が一望出来る、この石を甚吾石とする事にした。この石は都道からとがった先端が良く見える。正春兄いも何か付けろと言われたが、俺は良いと付けなかったと言っていた。本名は平清水が頭で、長滝山の頂上とか、巌が原などと今は呼ばれている。写真家の飛一兄いは、甚吾石からの美代が池の遠望は、素晴らしいと写真集に残している。




2008年10月31日 生活 10 へその緒

西の沢、賽の河原とも言う。遠い昔はこの地に小屋があり、出産が近く成った妊婦は、ここで生活し赤ちゃんを産んだと聞く。胎盤へその緒は、自分の家の床下も埋めた時期もあつたが、鶴子産婆さんは、西の沢の大きな椎の木の下に長い間埋めていたが、昭和42年都道が上を通り、やむなく少し下に移転した、山を削り石を五個ほど並べ、畳一畳ほどの平を作った。この時代余り赤ちゃんは生まれなかった。50年代は敬久の家ではお医者さんに頼んで、御蔵で四人も生ませてもらい、キサエうんばあが、埋めてくれた。この時代から実家が島外のお嫁さんが、多くなり実家で出産する様になり、この地を使う事か無くなった。


2008年10月30日 生活 9 馬の背の井戸

川口の沢と川田の沢の分水嶺馬の背にコンクリートで作った小さな井戸が有る。小さな沢で石の間から清水がにじみ出していた。明治、大正と盛んに桑材が下の川口から馬の背を通り村へと運ばれた。運ぶのは女衆の仕事で、荷物を背負い800mの山を登り下りするキツイ仕事だった。坂を登りきりこの清水は、地獄に仏だったろう。山田みきは、何回かこの思いを経験した。嫁にもらわれて、東京へ出たが、女衆の苦労を知っていて、当時貴重なセメントと砂を送り、馬の背に井戸を作って欲しいと、たった30cm角の小さな井戸だが、人々の心を潤した。


2008年10月30日 生活 8 かつを鳥の道作り

毎年10月の月末近く成ると、かつを鳥駆除の為の道の整備が行われた。朝暗い内に出かけ、帰りは鳥を沢山背負い、滑ってけがの無い様にと昔から行われていた。村中鳥取に参加する者は、必ず出なければならなかった。主に川口ルートで、学校の庭に集まり、役人が年の順に割り振る、区間は何時も決まっていて、吉田川から小屋まで、若い方から5人と言われると直ぐに現場に向かう。道は7区間で50人ぐらい、参加人員が多いと区間員も増える、南郷や黒埼のルートは普段利用しているので1チームずつで見る。帰りは終わりしだい解散。小屋までのグループは、鳥見の役が有り、何匹か鳥を掘り出し、大きさ産毛など仔細を報告する、役人はこれを参考に駆除の日程を決める。


2008年10月29日 地名 4 実坂

徳山実明治35年生、昭和42年1月22日67歳亡。栗本敬助の四男で、若い時は船乗りをしていたと言う。島役所には、林務員と言う役職が作られていた。土木工事、山の木管理など現場の作業監督、何代目かの林務員をしていた。南郷への道は長坂を下りかけまへ登り上がるのは大変なので、平らな道を作る事で、難所の十個岩を切り抜き、神畑の尾まで来たが、大島分川の沢は上流は崖、下流も崖なので仕方なく歩き易い所を選んで、川まで切り開いた、距離600m最初の300mが急で40度、この坂を実坂と呼んでいたが、直ぐ隣りに都道が作られ、地形が悪いので、切り土砂が落ちて、実坂は埋まってしまい、入り口の一部しか残っていない。下流に作られた発電所の資材は、ソリに乗せられてこの坂を下り組み立てられたと言う。重いフライホイールは、ソリから落ちて、沢を転がり難義の坂だと言われた。


2008年10月28日 生活 7 分家

一郎翁により明治22年8月、取り婿、取り嫁により分家が一戸作られた。それまでは28戸の長男以外嫁さんをもらえず、次男他は、長男の下で働くか、島外に出るしかなかつた。その一年後28戸の中から7戸の分家が生まれた。それぞれ本家より土地をもらい、家を建てて独立した。村も開墾地として、赤沢、大船戸、平等川に少ないが山林を分け与えている。これから何軒も分家が、増えていった。最初の分家8戸は、100年経った今は、残っているのは1戸だけで、住みずらいか、2代、3代目で島外出て生活している。最近28戸の一軒が、300年も続いた先祖代々の墓を、島外に改葬した。村を守為に土地をもらい28戸制度が、作られていたのに、これも時代の流れなのか?。


2008年10月27日 生活 6 水道管の道

村に簡易水道が出来たのは、昭和31年で、それまでは上、中、下町にそれぞれ五立方ほどのため井戸が有りその井戸から各自で、桶やバケツで運び、風呂や、水かめに溜めて使った。大川水源は、御山に登る途中600mの高さに有り、岩の間から湧き出している。その水を孟宗竹をパイプにして、村の中の三箇所の井戸に入れていた。パイプは地面に置かず、二股を組み1mほどの高さにして、流していた。年に一度村中で、竹を切、ヨウ抜きをして、山までかずき揚げ交換した水源から下にパイプの通した後が切り抜きになつて今でも残っている。御山の登山道にぶつかる所には、パイプに切り込みが入れられ、冷たい水が飲めるようにしてあった。


2008年10月17日 石 57 川口神社

稲根神社を建て替えの時社務所に、江戸時代の川口神社の札が出てきた。昔よりあったと知る。今のお宮はみなせ沢と平清水川の合流地点の小山の頂上に、石作で御山の頂上を向いて安置している。台座、母屋、屋根で、母屋には表には扉、裏には島の栗本惣吉、三宅島の神着の天草王と言われた浅沼道之助、二人の名前が刻まれている。建てた年代は分からないが、桑材を明治から切り出して多くの材を出した、神着の前田聡明の名が書かれても良いのに?。お宮の近くに作業小屋を作り、細かくした材を、御山越えで出したり、河川敷の通り易い所を下り、最後の滝をぶら下げて浜に下ろし、舟で港まで運んだ。かなりの危険が有ったので、安全を祈願して重い石のお宮を、安置したようだ。それにしても、重いお宮を良く運んだ。感謝


2008年10月17日 石 56 握り飯の石

昭和50年ごろまで浜の磯には、玉石に混じり白くゴマ粒の入った玉石が幾つも見えた。これが、1863年4月16日大根が浜に座礁した、バイキング号のバラスと石とは知らず、握り飯に似ているので握り飯の石と呼んでいた。2千トンも有る帆船で、かなりの御影石をバラストに乗せていて、大きさも、一個60kぐらいの大きさのようだ。都道が出来る前、神主宅の石垣は、この石で築かれていた。石は、割りっぱなしで無く、角が丸くなつているので一、ニ年波に揉まれてから揚げて石垣にした様だ。記念碑の話が高橋先生より出たのと石垣が、外されたのと一致して、昭和42年記念碑の台座に使われた。護岸工事で、浪打際は、掘り起こされて、握り飯の石は、見つけるのが、難しくなった。


2008年10月16日 石 50 舟木山の石

神社の階段の石、鎌倉時代の墓石、光竹院の墓石など厚く無く、面が平らな石が、多く利用されている。舟木山の水源近くに、沢山有ってその石を、村まで引いて使ったと言う。山は、村の上に有るが神社の森に入ると、急坂を100mも下り、降ろさなければならない、大きい石は、1t以上も有る石も幾つか有り、鳥居の下の石は大きい。以前は、下水側溝が、上の町の井戸からタリボウまで流れいた。何箇所か橋の変わりに石が下水の上に掛けられていたが、下水が地下に埋められて,いらなくなり処分された様だ。山に行っても今は、取り残された石が、数個しかない。昔石を引いた道が、今は水道管が埋められて歩き易い。


2008年10月15日 石 54 観音川の墓石

明治33年11月11日大きな地震があり、各所で被害が出た。水源の一つ舟木山の水が枯れた。南郷観音川で休んいた栗本栄吉、1832生まれ1899年67歳で亡くなる南郷2番地に住んでいた。上から転がって来た石があたり亡くなった。昭和9年に徳山ミヨが墓石を建てている墓と、墓石は別のようで、敬久が整備した時は、岩盤の上に墓石が建てられていた。道路が出来る前は、誰が供えたか30cmほどに育った榊の木が、目印になっていたが、今は道路の下になつたが、墓石は、5mと離れていず、亡くなった所を向いて建ついる。姪っ子か、子供か、わからないが、良く建ててくれた。今でも足跡知らされている。


2008年10月13日 生活 5 木寝山

木を根元より切り横に寝かす、ガスの無い時代今から30年ほど前までは、この作業が各戸で盛んに行われた。風呂を沸かす薪、ご飯をも薪で炊く里村の周りの山林は、ほとんどが無いも植えない、ただの雑木を育てていた。各自が自分の山を年三回ほど木寝いをし、背負子で家まで運ぶ。三ヶ月ほどで枯れ、薪に調度良くなりる。各家には、薪を保管する場所が一から二箇所用意されていた。この場所をジェンノキダナと言う学校の休みの日は、子供の仕事で、雨の続く前は、ジェンノキダナ一杯にするのが大変だつた。兄弟が多いと早く一杯になるが、一人子は汗と涙で、疲れた。


2008年10月13日 生活 4 子守

島には以前は、専業主婦はほとんど見かけ無い。動ける者は働けで、浜の艀作業、黄楊の背負出し、この二つは島の生きていく為の作業。その為乳飲み子を抱えても仕事に出なければならなかった。お婆さんや、姉、兄が居る家族は良いが、それらが居ない家は、誰かに子守を頼むしかない。親戚の仕事に行かないお婆さんか、背中に子を背負う事が出来るぐらいなお姉いさん。十歳ぐらい離れた女の子が多かった。私も一人子で、親戚のお姉いさんで、七つ離れている、おぶられていた記憶は無いが、七五三の祝いの時、赤飯をお産婆の家に、二人で綺麗な着物を着て、届けたのを今でも覚えている。女の子同士だと、姉妹付き合いをするみたいだが、男だと何だか照れくささが、先にたつので遠くしてしまう。


2008年10月12日 地名 3 源太郎沢

旧道を発電所から登りつづら坂を登りきると、かけまからの道とぶつかる。この一帯を坂の上と呼ぶ、隣りの板木が沢に入る手前に、小さな沢が一つ有る。この小さな沢を源太郎沢と呼ぶようになつた。天明元年七月二十三日亡、道休信士、この時期全国で飢饉があり島でも、食べ物が不足していて、ここで行き倒れ居たと言う。施主徳山政次郎と彫られていて、その横に縦二列文字が有る、一列は難しく読めないが、左の一列は、本村有位二リ余とみる見る。誰かが道の距離を書いたとは思えない、あと二里、8kmがんばれば、里集落に着ける。そうしたら食べ物食べれて死なずに済んだだろうに見た。石は、語ってくれる。


2008年10月12日 生活 3 南郷札の墓地最後の改葬者

日時は、記録してなかったが、日野校長や、匡利兄いが、昔一緒に遊んだ、松本昭夫が一人札の墓地にいて寂しいんではないか、群馬県に姉が居るので、預かってもうと、改葬する事になり、元住人の正義兄いを頭に何人かで掘る。上から二つ目の墓で、太い松ノ木の横、墓石も何も無いが、中には、セルロイドの筆箱に名前が書い有ったので本人の墓に間違いとなった。南郷に木炭を焼くために、何人かの他県の人が、山に入り炭を焼いていた家族の一員だった。昭和17年10月3日7歳で亡くなつている。これで札の尾墓地は無くなった。無事栃木の姉も預かってくれて、安心したとのこと。


2008年10月12日 石 53 札の尾墓地最後の墓石

島には、墓地が二箇所あり、神の尾墓地と南郷札の尾墓地。里から南郷へ向かう旧道で、里が道の坂を降り切るり、道下が墓地で、道上には慰霊碑などが建っている。最後の南郷の住人新松爺が、里に引越すことになり、墓も同じく持っていくんで、墓石を運んでと頼まれた。昭和40年9月、健生兄いが台座を、敬久が墓石を背負子で背負う。まだ18才、里が道の坂が、重く遠く感じた。爺い夫婦には、子が無く姉の子養子に向かえていた。爺は背負カゴ作りをして居たが、亡くなり神の尾墓地に入っていたが、何年かして養子が地元の三宅島に改葬した。墓石は下の山の中に納められた。


2008年10月11日 地名 1 おすぎ坂

20番地からヤメンカタまで、10mほどのさか坂道。淡島様のお宮の横と、本家は坂には入らないく、隠居の前の坂だけを呼んでいる。彦左衛門の妻で、息子に代を譲って、母屋から出て直ぐ横の隠居に移り住んだ家の前で、天気の良い日は、毎日わらを打ち、わらじ作りに精を出した。万延元年11月7日亡くなった。いつの頃か、誰と無くおすぎ坂と呼ばれるようになった。江戸時代は、玉石も敷いてなく急な道で、明治になって、浜から玉石を運んで、石垣を作り、玉石を敷き詰めるが、埋め土が足りず木や枝を埋め込んだら、しばらくしたら凹んで、補修したと聞く。綺麗な石段だったが、コンクリートの階段、側溝が作られ、今はただの坂、お祭りの御輿が練り上るのに一番見ごたえのある坂


2008年10月10日 生活 2  いとま畑

大正のころまであつたらしい話。実際に私のひいお婆さんの事で、明治8年ごろの28戸の旧家に嫁いだが、事情はっきりしないが、家を出された、その時ならいびらの畑三段をもらう。今で言う手切れ金か、慰謝料に当たるか。出されたお婆さん、家が無く兄貴の家に居候して居たが、この畑を交換、又交換し現地をてにいれ、息子が家を建て住んだ。その他に、婿畑、望まれて婿に行く時、畑、山林を少し持つ行った。お茶飲み畑。テレビの無い時代男達は、気の会う先輩、仲間の家に、毎朝仕事に行く前に、お茶を飲みに行く、この様なグループが、幾つもあった様だ。お茶の飲みに行った人は、家主の普請仕事などを進んで手伝い、時には、木山の木を薪に上げたり、畑の一段もあげたりした。


2008年10月09日 木 43 インキョンバッチィーの訂正 53

以前43で神社の森に有る、椎の木インキョンバッチィの話を書いたが、3,4人のお婆さんに聞いても、おらしらねーと言っていたが、和姉が、のぶ子姉に、木の話を聞いたら、知っているので、聞いてみろと言われて聞きにいった。長男が嫁さんを迎えると、親は隠居に移り暮らす様になり、年を取るにしたがって、体もだんだん小さく成って行く、他の椎の木は、落ちる椎の実は大きのに、この木の実は、小型で小さい、まるで隠居のお婆さんの様だ。と言うので、多分隠居のお婆さんの様な小さい椎の実。そう言えば老人は、たいがい小さく見える。でも例えが悪い、何処かのお婆さんの椎の実だと、話がつづきロマンがあったに。


2008年10月09日 石 52 面を割られた石

サガラの祖霊社入り口に、ガラ積みの石垣が回り積まれている。その中に、70kgほどの玉石が10個混じり有り、片面が剥ぎ取られた状態だ。島は家を建てる時は。玉石を礎石とし、柱の立つ石は大きく、その他は、少し小さめの石を使う。一軒家を建てると100個以上、浜から、背負い上げなければいけなかった。昔し火事で焼けた石と言う説もあるが、礎石にした時、面でなく、裏面を少し欠いて置けば、台地にヒットし確実な根石となる。根石の上に建てるので、土台は、椎の荒削り、柱も椎、大きな梁を入れて、台風が来てもいいように重く仕上げる。根石建ては、風が床下を通り、湿気の多い島の暮らしにマッチしている。


2008年10月08日 生活 1 本厄の捨て子

男の本厄に子供が生まれたら、捨て子と言う慣わしがあつた。あらかじめ、拾い親を頼んで置き、捨て場所、捨て時間を決めて、儀式は行われる。拾い親は子供のいない夫婦か、近い親戚に頼む。拾い親は子を拾い、家に帰り風呂に入れたり、食事したり、ミルクが付いていれば、飲ませてあがる。しばしの時間を過ごし、子供の家に送っていく。今後拾い親は、親戚付き合いをする様になる。近い所では、済、冨士夫婦が、二組の子供の拾い親となった。島では、厄は四つ角に落とす、厄が子供に、移行しない様にした慣わしと思われる。70年ぶりで42の厄の父親がいたが、伝統を守り行うと思ったら、見る事が叶わなかった。


2008年10月08日 石 51 四度移動した墓石

大正5年生、昭和12年11月14日、満州国興安省東方にて戦死、享年23歳。母ひょうが昭和15年11月14日に学校校庭入り口近く、自分の山に建てる。昭和40年都道拡幅で、お墓の上部に、戦死、戦争犠牲者を一同に安置した。高台で、石垣が、風雨により崩れそうなので、自山のモトホソに移転した。戦死した満州は、鼻水も、凍るほど寒い所だと言っていたと聞く。モトホソも、冬は毎日西の風が、吹いて寒い、死んでも寒い所では、かわいそうと、平成16年に、先祖の眠るお墓に移した。大きいので、目立つて見える。墓と言っても戦死で、何も帰って来ない、供養塔なので、動く事が可能だった。名前は小林直保、合った事も無いが、敬久のおじさんです。


2008年10月08日 木シリーズ 52 ヨーゾメ

島では、結婚式の事を嫁入りと言い、チューニンが提灯を持つて先導し、嫁さん、嫁入り道具と続く。道具の中に無くてはならない物、背負子と背負かごがあつた。背負かごは、島独特のかごで八丈、三宅のかごとは形も、背負縄も違う。縄は髪の毛の三つ編みに近く、水に濡れても乾き易く作られている。かごはニガッ竹を、細く裂いて、丸く、置いても安定し転がらず、背負っても背中に、ぴったりヒットして、重い物を背負っても、体全体で、背負う。このかごの入り口部分の補強の材が、ヨーゾメ本名は、ハクサンボク、三cmほどの太さしかならず一年で1,5mも伸びそのままでいる。木を二つ割にして、生木のうちに丸くし乾燥し使う。今は、かご作れる人がいない、畑に行く嫁さんが、いないからかご職人は、いらない、、


2008年10月05日 石 50 四郎二郎岩屋

遠く鎌倉時代、里部落で、四郎次郎が夜中、ふと目を覚ますと、かすかに何処からか、南風の音に混じって鈴の音が聞こえてくる。微かな鈴の音を頼りに、野を越え山を幾つも越え、音をつたつて着てみると、大きな岩屋に前の、シバの木の枝に風も無いのに、揺れて鈴が、音を出していた。岩屋の奥で鏡が、日の光を集めて光り輝いている。四郎次郎は、急いで引き返した。あまり帰りが遅いので、嫁さんが足川で、麦で作った団子を持って、待っていた。部落の皆を集め、小さな祠を作り、手分けして岩屋に戻り、鏡を祠に写し、岩屋は暗く湿っているので、少し行った奥の南向きの地に、安置した。岩屋何時のころからか四郎次郎岩屋と呼ばれている。


2008年10月03日 石 49 伊豆石

大川水源より、竹樋などで水を村内三ヶ所の井戸に、溜めた。上町の井戸は、村で作るが、中、下町は、寄付を集めて作る。伊豆の国より何回も入れている、明治29年学校の基礎石、診療所の基礎、3箇所の井戸。これらは皆無くなったが、祖霊社に入る階段は、少ないが残り、雨などで滑るので、最近溝を入れた。石は柔らかく、加工し易いがもろく掛け易い。長さ1m以上で20cm角、よくもこんな重いものを、何十本も肩でかずいて運んだものだ。井戸で、最後までの残っていた中町井戸も、中町線工事で壊される事になり、当時の村長に貴重な文化財だから、どこかに残してほしと、お願いしたら、捨てるのやめたが、ならん川の橋の近くに仮置したようだが、一つ無くなり、二つ無くなりして、今は、組み立て用にも、元の井戸に戻らない。


2008年10月02日 石 48 新島石

沖の新島で取れる石で、耐熱、耐水、軽量、加工が容易。島でも多く取り寄せた。中でも大きい物は、旧郵便局の沖側の塀、高さ2m、長さ40m、綺麗な円を描いていた大正の作品。他に、炭釜の入り口の蓋、幾つにも切り、火力の調節が、容易に出来た。大正時代はからは、棒受網が盛んになり、一号、神幸丸、鴻益丸など、仲間で作り、競争をした、ムロアジをムロ節に加工するのに、ホイ炉必要だ、ゆでたムロアジを燻製状にする施設。地下に1m程穴を掘る、立60、横90cm、これは魚を乗せる竹のセイロの大きさ、地上部は火に強い新島石をセイロが、落ちないように角に60cmの高さに並べる。その上にセイロを、何枚も乗せて乾燥する。各自で作ったり、仲間で作り利用した。今は魚も取れなくなり施設も邪魔になり、取り壊された。個人の水ため井戸も同じで、無くなった。


2008年10月01日 石 47 道に取られた石

鉄砲場の尾、松の防風林並木で、一番最初の木の根元に小いさな祭壇が有り、平たい石が建てられていた。何の神かは、今は知る人もいない。鉄砲場の尾は、稲根神社本殿の例大祭の帰りの人達を、さか迎えをしたり、学校の運動会も、時々行われたり、もっと昔は、廻船などに、火を焚いて知らせる場所でも有った。時には、鈴木林蔵爺さんに、かつを鳥の雛を、元気に育てと、おまじないをして飛ばしもらった場所。思うに、並木の終わりに不動様が祭られているし、200mも有る並木が、元気に育ち村を守ってくれる様に、願って作られたんじゃあないか。昭和40年代林道工事が、始まり松と祭壇が無くなった。勝手に解釈して、書いていて、本当は何の神様なんだろう。一枚の写真が、残るのみ。


2008年09月30日 石 46 炭焼記念碑

明治39年至同41年栗本悦三炭焼記念碑、父喜助之建之
悦蔵明治21年1月生、同42年6月亡、同42年8月15日葬儀をした。島の、何人かの仲間と北海道へ出稼ぎに行った。病死と有るが、物取りにあい殺された話もある。小島分川渡ると、川沿いに左から悦蔵の碑、背景を持った仏像が二体の祠、右に炭釜と並んでいる。昭和40年代には、碑の横に松と杉が植わっていたが、二本供根元より枯れて倒れた。次男が遠くの地で、不敏な死をとげ、親父としては、泣くに泣けない気持ちでこの碑を建てたと思う、18,9だとまだ修行の身、この地で一人前になるまで焼けば、死なずに済んだろうに。北海道は遠い、亡くなってから2ヶ月もかかって、故郷に戻れたんだ。


2008年09月30日 木 シリーズ 51 残った杵柄

島の1代産業、鳥もち製造が、明治38年より南郷、川田地区で行われ出し昭和13年ごろがピークに達していた。中でも川田は、40mも水を引き動力に水車回して、杵でもち皮をつぶした。何時終了したか分からないが、昭和40年には、井戸が4つ草におおわれていた。昭和32年、井戸より下流100mに水力発電所が作られた。天井の張りに、3,5mの加工した、椎木の12cm角材が、二本乗せられ、天井クレーンのレールの役をしていた。発電所の建屋が建て替えになり、古い材は廃棄された。私は知っていた、この二本は、杵の柄の部分だと、貴重な資料と、一mの大釜と、杵柄を、資料館に持ち込んだ。遠くからやつと運んで来たのに、あまり期待されなかった。この品が今、何であるか分かる人が、いるだろうか。


2008年09月29日 石 45 記念碑の有る玉石の道

大正天皇即位記念に、花田から岡道間、長さ117m幅1.8m、人夫317人、費用321円、大正4年に御蔵島村労働組合が、改修の碑を、中ほどの火立どに建つている。昔の玉石の道は、宅地、都道、村道と次々と作られ、今残っているのは、警察の駐在所の横5mほどだけ。玉石の間に芝が入り、雨水が流れても、びくともしない。職人技だ。村の中の道も玉石を綺麗に敷き詰めて有ったが、下水工事、車道工事で、ほとんど無くなりつつ有る。最近は、残っている玉石の道を、コンクリートで埋めて、老人が転ぶといけない、バリアフリー化だと、年寄りは、昔から道を作りそこを歩いて来た。ただ今は、年齢が、10歳以上伸びて、足、腰が弱くなり転ぶ危険多くなる。仕方が無いか。


2008年09月29日 木 シリーズ 50 神と松

松、島の松はほとんどが黒松、赤松は塩風に弱いと言うので、実際に植えてみたが、風が当たると葉先が赤くなってしまった。防風目的、記念目的などで、植えた木も多いが、神様:石、祠、建物、木:通称神様と呼ぶ。部落の周りに有った、太い松は明治から大正の学校、役場、診療所など建物に使用された。これらの木は、当時太かったと聞く、宝暦、1750年代に植えられた木と見る。松の木の根元に行けば、神が居る島では、松をご神体の番人として植えたのでは無いか神社、不動様、祖霊社、観音様、千人切り、太い松が、仁王様の様にご本尊様を、お守りしている。


2008年09月28日 石 44 落ちそうで落ちない石

南郷の磯、元根のすぐ脇で、西の風を元根が屏風になり、どんな大風が吹いても凪で、釣りをするには、絶好な場所。海は、深く大石が沢山点在し、魚のすみかになっている。磯は、やすかじヶ森の崩れた大石の磯その大石が、一つが、頂上まで250m有るが、70mの処で、今にも落ちそうに見える。下から見ると、50度の傾斜で、石の上に石が乗っていて、乗っている石が空中に浮かんで、今にも自分に向かって来るようだ。明治27年生で、南郷暮らしの新松兄いは、自分が、覚えた時は、今と石は同じだと言ていた。兄いはササヨ釣りの名人で、誰も魚が釣れなくても、何時も必ず釣り上げた。地震たびたび有るが、100年以上も同じ状態で居る石。大きさは、20tぐらいか、落ちたら、他の石を供に、浜の磯ぶつ壊す、大変だ。


2008年09月27日 石 シリーズ 43 星のくそ

星のくそ、黒曜石の欠けらの事。花田、を中心に下はタリボウ、上はナコウの崖沿いに、欠けらが点在した。特に花田の周りは、大きのや土器の欠けらも転がっていた。昭和32年の調査で、縄文時代の住居跡とわかった。欠けらの中で、バーレボウル大の石が有った。石は神津島産の石だそうで、舟の無い時代に黒潮を越えて、良く運んできたもんだ。7000年も前の事実を今に教えてくれる、貴重な欠けら。畑を耕すと今でも、小さいのが、きらりと光る、縄文人に合った様な気持になる。


2008年09月25日 石 シリーズ 42 納められた石?

島でただ一戸有る小林家は、昔は徳山だったが、島外から来た婿が、自分の小林に変えたと聞く。この家ほど、神仏の神を多く祭る家は無い。不動様、観音様、金山様、淡島様、地主様、福徳様、鎌倉時代の鏡。平成の当主が、多くのご神体を。成田山へ納めた、お寺から目録を、いただいている。金山様のご神体は、隕石の様に見えたが。残っている神は、椿に囲まれた淡島様、村の真ん中で、石作りので、明治30年直蔵さんが、作りかえた。多くの女性が、お参りをして、丈夫な赤ちゃん出産、安産の神様です。観音様は、地名も観音前と残っているが、石の岩屋の下で、祠だけが、寂しそうに、落ち葉に埋もれて、観音様の掛け軸、二福だけは、私が、預かっている。


2008年09月25日 木 シリーズ 49 あげたミカンの木

島の果物と言えば、コウジミカン、今は誰も見向きもしず、カラスの餌になっているが、一昔前までは、貴重な物だった。村から南郷への道々、風当たり少ない土地に、何本か植えられいる、中でも島分、川田、南郷は、植えてある家の数も多い。川田沢の、山二印のミカン山は、樹齢150年ものミカンが、植わっている。その内、当主が、嫁に行った娘にあげた木が2本、孫にあげた木が1本、ミカン採りの時は、これらの人等が一同集まり採るので、とてもにぎやかだ。大人が木に登り、子供等が、途中の長坂まで、何回か運ぶ、このミカンは、12月に採り、ざるに広げて置くと、3月ごろまで食べられた。甘いミカン類が沢山出て、すっぱいコウジは、カラスの餌か、情けない。


2008年09月24日 木 シリーズ 48 鉄砲になる木

今店頭に並ぶ、えのき茸の自然に生える木、これがえの木、肌がごつごつして、若いのに老人に見られる木本当に老人に成り傷が化膿すると、そこからえのき茸が出る、大きのは、30cmにもなる。落葉木で、春先に葉と花を付け、6月には3mm程の実を沢山付け、この実が、鉄砲の弾となる。銃身は全て竹製。2,9mm程度の穴の開いた竹を探し、銃身とし中に入る、送り棒を入れて、銃身より少し短め作る、えのきの玉を一つ入れて送り込んで置き、二つ目は勢い良く送る。パーンといい音か出る。何を打つでもない、ただ音を出して遊ぶ、少し昔の遊び。辰三兄いの則子先生が、園児に鉄砲を渡し、えのき実ではなく、紙を弾に、教えていると聞く、実が無くても、紙だと一年中できるなあ。


2008年09月24日 石  41 久しい無縁仏

平成2年4月24日、タルボウ赤南郷が先に、首と手足が無い女性と見られる死体が、見つかった。この一帯は、西の風が強く吹くと、流れ込み安い地域。別名焼き場でもある。女性の監察医が、観察し、村役場の職員がにわか火葬場の、作業員となり火葬をした。顔が無いし、知らない人だから、作業が出来たと思う。役場で、仮通夜をし、流人墓地に、埋葬した。海岸で、少し長めの玉石を、拾い供養にしたが、何も置かなくて良いと、言う人も居たが、この石が、ある限りこの石は何か、何でここにある、無縁仏も、私は、ここに眠っているよ、言ってもいいよ。


2008年09月23日 木 シリーズ 47 旧診療所の天井板

旧診療所は、明治44年7月6日に棟上げした。入り口を入ると廊下が裏口まで有り、左右二部屋ずつ診療関係で、次の一つずつが、医師の自宅になつていた。廊下の、天井板が、長さ1,8m幅が1mの杉の板を敷き詰めて有った。樹齢150年の年輪を数えた。昭和53年12月5日、資料館に、改装したが、骨組みは、そのままで改装。平成12年に、御蔵荘建設の為取り壊す、明治の建築を見る為に、天井に上ると、上棟の札とかけやが、棟木に付いていた。書いてある名前が、地役人他、28人も書いてあった、一代事業だ。その天井板も3回目で御蔵荘にほんの少し使われた。


2008年09月21日 石 40 古入金七人之墓

一郎翁が明治20年に建てた。宝暦3年1753年事件は起きた。神主宅より刀盗み、村に火を放し、小舟で島抜ける。この中の長右衛門が注進する。七人は山に隠れたが、見つけ出し、小入金で切、埋葬したと。日本各地に七の付く伝説がある、島のも伝説ではないかと言う人もいるが、山奥に、浜の玉石150個も道も無いのに、儀式では、しない。長右衛門は褒美により百姓になった。一郎翁に、墓石を建てるに当たり、この地を管理し、墓に、水、榊供え供養する様言われた。事件後、長右衛門は、1768年に戒名島残信士で亡くなっている。ただ、埋葬地に、正観音僧と彫られた玉石が、台座付きで有った、何処にもこの僧の記録は見えない


2008年09月20日 石 39 村の中に有った石

村内に神として祭られている石は、幾つか有るが、ただの大石は、昭和40年代には、二つ有った。森山が下が、昔崩れて飛び出した石。もう一つは、芳則宅と文昭宅の境に、これも大川から飛び出したと言われいた。何時の間にか無くなる。明治5年生まれの山田岩次郎が、雇われ島に着てから、石を割る、積む技術を、島の人達も覚えたようだ。村の中の石を割り、各所で築いた。大きいのは、高さ6m、長さ30mも有る立派な石垣だ。神主宅は、バイキング号のバラスト石で石垣は積まれていたが、道路工事で無くなった。岩次郎は、浜の坂の工事から始まり、坂の多い村に、石を積み宅地を、安定した物にした。79歳で無くなり、島の土に成った。


2008年09月20日 木 シリーズ 46 高橋ミカン

高橋基生先生が、甘夏とグレイプフルーツ交配種を大島で作り始めた。御蔵にも苗を入れた、名前が無いので、作る人の名前を付け、文昭ミカンとか、敬久ミカンは、昭和50年に、2戸の畑を借りて、瀬戸の沢に108本植え、その後1戸から借りて、自分で、カラタチに接いだ苗を50本植える。一つの沢を利用したが、日当たりが、二時間ほどで、ミカンには良くなく実は沢山実るが、ほとんど落下してしまう、仕方なく切接ぎしダイダイに変える、切り継ぎは面白く、ミカン類なら何でも継ぐ、最高一本の台木に、5種類接ぎミカンが5種実。島にはミカンは、適さない、北向きで風が強く、葉が落ちてしまう。敬久ミカンは、158本も植えたが、今あるのは5本、8月収穫できるのは2,3個だが、これが又みずみずしく美味しい。


2008年09月20日 石  38 露国商船溺死者之墓

一郎翁が明治0年3月、流人墓地に改葬して建てた。慶応4年2月25日、ロシアの巨艦が、御蔵の近海で、覆没船員12名、カッターにて前ヶ浜にきたが、激浪のため船体は打ち壊れ、3名の溺死がでた。外人1、日本人2一人は長崎住種二郎。タリボウ浜に埋葬して有ったが30年祭に付き、神の尾墓地に改葬し石碑を建てた。10年ほど前、トサカのりが、島の北側で盛んに取られるその時、ダイバーがバイキング号と、同じような錨が川田の川尻沖に、片爪を立てて沈んでいると言う。幕末の動乱期にアメリカ、ロシアと、二大国が、こんな小さな島に、座礁した。教育長に、引き上げの話をしたが、まとまりそうも無いな。


2008年09月19日 木シリーズ 45 長めん桜

徳山長助、明治32年3月28日生、昭和21年11月20日47歳で、亡くなる。家は今の、さがらの上り口に有った。通り坂、今の道は、歩き易く平気味になつているが、以前は、横田登りが平を回り、少し平を歩き、急坂を登りあがり、欠塚んが沢にはいる。急坂の上に10本ほど、一列に植わっていて、春には、歩く頭の上まで枝がのび、満開の花を見せてくれた。都道工事で、手前の太く立派な木が、切られしまった。残った木は、尾根に近く、西風が当たると見えて、あまりいい花を咲かせてくれない。自分の山でなく、本家の山だ。残った桜の木下に、昔の急な通り坂が、草におうわれているが、立派に坂道として、残っている。


2008年09月19日 木 シリーズ 44 b 松

松山の西の沢向き、村内を西風より守るために、明治に植えた松が何本かあり、その後も、昭和も植えたされて来た。明治の木で、西の沢向きの一本は、太さは1mほどで、30度に傾き、枝も大きく広く広がる。登り易く、子供でも、楽に登ることができた。登ると、大根、卯辰川の川尻、西の沢の家並み、見晴らしがとても良かった。登るスロープは4m、真ん中2mの所に穴が有り、そこにカンスゲが植わり、つかめばひと休み出来た。台風で、広がる枝の大部分が、引きちぎられてしまう、そこから腐りが入り、最近根元より地についてしまう。遊び場の無い時代、ここで遊んだ人等は、今でもb松を懐かしがる。名前の由来は、秘密


2008年09月19日 木シリーズ 43 インキョンバッチィ

隠居のお婆さんの椎の木、と言う。三宝橋を、御山に向かって登る、稲根神社右、迎えの神様の直ぐ上に、道に覆いかぶさる様に一本立ちの、大きな椎の老木が川に向かって傾きながら生きている。枝が時々落ちて道をふさぐ。稲根神社の森の中の一本。何処の家の隠居のお婆さんか、叔母さん等に聞いても、知る人はいなが、昔からこう呼ばれている。秋10月椎の実が熟せば、山へ登る道に、わりと大粒の実が、落ちて散らばる。だげかのお婆さんが、このシーズンを心待ちにしていたんだな。この木も年をとり、毎年は実を付けず、付けても、実の入って入るのはのは少ない。もう直ぐに、コンクリート舗装の上に、実を落とすかも。


2008年09月18日 石 37 美美庵の石の円柱

下里の美美庵、庭の隅に円柱が、並んでいる。以前は電柱を、建てる時スコップで、掘っていたが、今はコン柱になり、穴も深く掘る。長さの6分の1は、穴を掘らなければならない。直径が、30cmもあるドリルで掘るのか主だが、岩盤だったり、点石だとダイヤモンドの歯の付いたコアを、回転して抜き取る。円柱は村内各所の物、大根ヶかた、浜の坂、美美庵の前、なこう、西の沢、ならん川、関電工、東配工の二社が掘つたものを、もらった。中でも、浜の坂は、岩盤だが、割れが入っていて、2m掘るのに、1週間もかかったそうだ。ここは昔から難所で、道も橋が架かり、手すりも無く歩くのに、怖く海に吸い込れそうだった。


2008年09月17日 木 シリーズ 42 花田の松

松になりたや花田の松に、出船入船見て暮らす。島節に有るが、新道が、明治38年8月に完成した記念に植えた様な松の年齢だ。少し前まで、十本有ったが、都道で1本と、台風で二本無くなった。花田の角は直角に曲がり浜へと下りこむ。最初の松の下には、基準点と、方位をしるした石柱が立つている。昭和30年代。青年が、畳二枚ほどの凧を作り、西の風が強い日に、花田の角から揚げる。糸は、マグロの延縄、遠くあした山の上まで届いている。この凧を村の真ん中まで持つ行く。十本の松を交わすのが、大変だ、ここを越せば、後は、火立ど、岡道、竹の間登り、尾平の農協の松二本をかわして、おつき婆さんの家が終点、ここにいわえて置く、唸りがロープを伝わりにぎやかだ。僕等もロープのしっぽを持って後から歩いた、電信柱が、村中に、立ちだして、凧揚げも、危ないと出来なくなつた。


2008年09月17日 石 36 吉が占場

徳山良吉、明治20年6月1日生、昭和29年5月21日67歳亡鍛冶屋敷が下で暮らし、長く役場の小使さんをした。休みの日には、フナ虫を集め、磯釣りを趣味として何時も同じ磯で、吉が占場と呼ばれている。船揚場をすぎると爺さん婆さんよつこ池、溶岩でu字に岩が沖に出ていて、干潮には、池になり小魚があそぶ。右の出が大きいから、爺さん、左は低く小さいのでお婆さんかな。よつこ池は二つ有った、一つは本桟橋の基礎となり、後のよつこ池も、防波堤の中に飲み込まれそうだ足川の滝の下で、大きな石がゴロゴロし、その中の平らな石が、指定席だそうだ。沖にの海の中に大きな石が有るが、石の下には穴が有り絶好の隠れ家で、魚が出入りして、良く釣れたと聞く。




2008年09月16日 石 35 一人足りない慰霊の碑

明治の偉人、一郎翁が建てた碑が、花田に有る。明治24年10月16日、島人が乗った5,4mの和船、15日15時三宅着、16日8時三宅発、中ほどまで来た時、突然北風になり、暴風雨、波は怒涛のごとく舟を襲い、転覆した。忠次郎42歳は、御蔵を向かって泳ぐ。初太郎35歳は衰弱死。佐吉10歳も衰弱死
水舟で帆張るが、進まない。17日15時神津島沖を流れるを、漁船に助けられる。20日島から迎えに行く。11月11日に3名の葬儀した。碑には、働き盛りの2名の名が刻まれいるが、10歳の子供の名が無い、わからない。碑には、追卓の墓とかかれている。


2008年09月16日 石 34 友情の墓石

坂倉長吉、伊豆の子浦出身、明治29年より32年まで島に行き来をしていた、航海に明るく船長をしていたようだ。平安丸、弁天丸の名が出てくる。三番叟の踊りを、神社に奉納したり、内地のノリゾメを、教えたり各島へ航海の道筋を、書き残し、教えもした。明治32年12月14日、大島沖で事故で亡くなるお聞き、舟の仲間や、有志が、墓石を作りお墓に、建てた。明治42年7月30日に花田の角、福徳山の日和場に移し御祭を執行している。花田の角は、舟作業から沖の全体、江戸、大島まで見え、海の男の友情は、いいな。


2008年09月16日 石 33 萬蔵寺の礎石

昭和58年10月12日大雨により、裏の崖が崩れ祖霊社を、押しつぶした。13日に村中で、解体し、隣りの資料館に御霊他を、移す。寄付や土地を整理し新築した。その時、旧お寺の礎石が出た、直径30cmで、お供え餅の形で、かけているが7弁の花が浮き彫りされ、中心に4cm角の穴が開いている。何個か有っただろうに、一個しか見えない。島は、玉石の上に柱を建てる家が、昔は、多く霊社もその工法で建て、他の石は、海岸から集める。左奥かどの礎石に、置いて柱が、建てられた。がんばれ萬蔵寺の石


2008年09月15日 石 32 滝に開けた小さな穴

村の反対側川口、川口の川は水が多く、滝はほとんど無いが、最後に浜の玉石の処で、20mの滝になり、海に流れていく。島に多い、帯状の溶岩から20m落ちて、滝つぼに流れ込む。溶岩は、幅1から2mぐらいで、高さも、長さも、色々有る。川口の滝の落ち口で、3cmほどの丸い穴が3個有る、中には鉄で錆びている所もあり、滝壷の向かい側にも10個、海側にも5個有る。明治から昭和にかけて、多くの桑材が切られ、肩で山越出来ない、大きい材は、山の地形の良い場所をソリで、滝まで運びここからケーブルを張り海岸まで下ろし、小船で、大根ヶ浜まで運んだと言う。この穴が、無ければ、昔この沢から用材を運びだしたと、誰が信じられる。桑材は、よほどお金になっんだ。


2008年09月15日 石 31 なくなった石

私ごとです。平成12年3月次女美波が、高校を卒業し、大学に入ることになった。記念に御山縦走を、したことが無いので、して見たいと言うので、することになつた。山頂には、御影石と、数個の玉石しか無いので、20cmほどの玉石に日にちと、名前を彫りこんだ。快晴の長滝山から登り、巌が原、一の森、馬の背
御山山頂に着いた、持ってきた石を、山頂の印の柱の根元に置いて、記念写真を写す。お昼を、食べて帰路に着いた。その後何回か、ガイドでお客さんを案内して、歩くが、御蔵小笹の中に、見えていたが、最近見えなくなつた。石は、動かず、何も語らず、私達親子が置いた石は、文字を書いてある有る、語る石。


2008年09月15日 木シリーズ 41 突然切られた木

栄が川の上流から、美代が池行く途中の道端に、岩の上に座り、道を横切る黄楊の木があつた。斜めだったが、目の高さで、此処を、歩く人は、どんな偉い人でも、行き帰りには、頭を下げて、通らなければならない。太さ20cm、樹齢250年、肌には、虎杢が浮き出て見事な木に見えた。今年の春、突然根より1mと3mの処で切り、3つになっていた。根株は、水分の行き場に困り、あふれカビとなり腐りだしている。この美代が池一帯の黄楊の木は、平成18年に都の文化財に指定されたのではないだろうか。250年も生きてきた、銘木を切って捨てる、もったいない、、池に行く観光客にガイドの説明の銘木を、道を1m下に持って行って歩く、頭を下げたくない人は、そうするべきだだった。


2008年09月14日 木シリーズ 40 さるなし

島には、蔓、つる類で、大きなものは、定家蔓、フウトウ蔓、島名金葉、山ブドウ、島名えびずる、鉤蔓、島名鷹のつめ、数が、少ないが、サルナシの一種でウラジロマタタビ、などがある。定家蔓は、秋に、タンポポの様な種を、風に飛ばす。金葉も秋にコショウ味の赤い実を付け、えびずるも、酢ぱく紫のブドウ状の実を付け、鉤蔓は、葉の付け根に付く鉤が、高血圧の降下剤になると聞く。サルナシは、島が、南限の植物だそうです。これも秋に、キーウイの様小さい実をつっけて、焼酎に漬けにすると、疲労回復に、効果があるらしい。ターザンが、木から木へと行くような、蔓が、川口には、沢山大木へ、登りあがっている、根元を切り飛んで見ようか。


2008年09月12日 花 4 島大根

種子会社の種が入る前、島には、島大根言う大根が多く作られていた。形は、なるみ大根の様に、中太で元と先が細い。煮崩れしず、芋と煮、魚と煮、鳥と煮、島料理に合った大根だ。島の漬物ドブ漬。ご飯の残りに塩を入れて、発酵させた物にスライスした大根を、一晩漬け込む、歯ごたえが良く、ご飯が進む。大蔵、宮重、等が入る前は、畑に、大きめな大根を、何本か残し、実が入ったら、刈り取り軒先にて乾燥、臼で突き、箕で飛ばし種子だけ取り出し、来年まで大事に保管する。50年代には、作り易い青首大根などが、主役になった。ウドで留美子姉いが、最近まで植えていたが、大変なので辞めたと。何処の家も、軒先に大根の穂が、体の無いスカート見たいに、いく枚も干される姿をもう一度見たいものだ。


2008年09月12日 花 3 サトウキビ

広瀬甚吾、明治37年3月5日生、昭和39年12月17日、60歳で亡くなる。甚吾兄いは、良家のお坊ちゃんで、あまり活躍した記録は無いが、島に色々な物を持ち込んだ。その中で、サトウキビ、別名甚吾もろこしがある。春先種をまき、苗を作り、専用の畑か、サツマイモ畑の空いている所に移植。一本立ち、径は1から2cm高さは3m、節が20cmだ。お菓子の少ない時代、子供のおやつだった。夏の暑い盛り、浜に、山に、遊び場に、皮をむいて、中の甘い汁の入った繊維をかじる。村中この皮で、ゴミだらけ、清掃日は、これから始まった、説もある。今は種子も無い。伝統を復活させようと、英彦兄いが、種を見つけた、来年が楽しみだ。遠くから見て、穂が、三角か、コーン状か
三角だと、残念。


2008年09月11日 石 30 認められなかった石

尾番の尾から検見、先平、つかなが坂と下ると、ボロ沢が川に出る。伝説の白子屋おつねが、村人にソウメンを、ご馳走した場所だ。一枚岩盤で、緩やかな下り勾配で、ソウメンもゆっくり流れて、さぞや美味しかったんだろう。川を渡る手前に、こうじミカンの古木が二本、その下に大石が,でーんと座って居る。その脇に1mほどの石の板が立っている、その昔、明兄いが、ボロ沢が川では、聞こえが悪いと言って、美しいが川とペンキで書いたと言う。皆んなその名を呼ばず、ボロ沢が川が、続いている。石の板は、寂しそうに川を眺めて、何を考えているのか。


2008年09月11日 花 2 紫かたばみ

徳山峰蔵 万延元年生、明治38年11月23日45歳で無くなる。村人は、紫かたばみを、峰さん草と言う。草丈15cm、ピンクの筒状の花を沢山付ける。子供達は、葉の付いた茎を、一本引き抜き、茎をむいて繊維だけにし、お互いにからめて、引っ張り合いのけんかをして遊ぶ。この草は、根が球根で、1が100に増え種が、又100に増える。畑の草取りは、大変だ、切り替え畑で10年も休ませて置いても、木の下で元気に,増えている。畑の厄介もの。峰さん、可憐で、可愛い花と見て、島に持って来たのだろうが、島の女衆は、畑に居て草取りの時間が、大変多くなった。


2008年09月11日 花 1 ラッパ水仙

栗本孝平南郷20番地、明治20年7月22日生、昭和38年5月29日、79歳で亡くなる。明治の改革で分家が出来た。その一員で南郷に入った、嫁さんを、栃木の中禅寺湖町から、もらって来るとき、東京の直ぐ南の島と言つた。おまちさんは、てっきり大島だと思い来たと言う。来て見てだまされたと、わかったそうだ。年をとって、里に引っ越した。長男とおまちさんは、三宅に住んでいた。時々三宅島へ行っては、色々な、草花を島に、持ち込んだ、トウワタ、弁慶草、ラッパ水仙ホトトギス、まだ有ったが、50年も経ってわすれる。ラッパ水仙は、初期の物で、花が小さいが、彼岸には、お墓を黄色く飾った。人々は、孝平ジイ水仙と呼んだ。時代は流れ、改良された水仙がいっぱい入って来て、じいの水仙は、抜かれて、畑の隅で朽ちて行った。時々じの水仙に、切り替え畑で合う。ジイまだ元気で居たかと、懐かしがるこのごろ。



2008年09月10日 石 29 流れた大明神

昭和32年、川田に発電所が出来た。24時間送電していた。職員は、一人1ヶ月交代で、3人で勤務していた。庭の50tも有る石の上に、川田大明神の石と、大水凪鳥慰霊塔の石が、置かれていた。鳥の慰霊塔は、鳥の多い山の中に、発電所が出来、明かりに弱い鳥で、夜、発電所にぶつかり、多くの鳥が無く亡くなったので、職員が、慰霊塔を、置いた。平成7年の台風で、御蔵の北向きは、大きな被害を受けた。発電所は、この大明神の乗った大石が、50mも下流に流されてたおかげで、、発電所は、一歩の処で助かった。これも川田大明神様、大水凪鳥の慰霊塔のおかげ。二塔は、今は、行方不明だ。安らかに眠ってください。


2008年09月10日 石 28 御山の火山弾

御山鈴原の東側、行曲沢川の源流に、火山弾がいくつも有る。大きな石は1m、小さい物は10cm。焼けたい石や、硬くて光沢がある石、高く空に上がり、落ちる時に、回転した見たいで、卵型の形のいいものなど、色々川の中や、竹やぶに中に埋まって見える。地表に出て見えるのは、ここだけで、他の沢では、見つかっていない。御蔵が噴火した証だ。三宅が、噴火した時、御蔵に来た、火山学者に石で、噴火の時期は測定できませんかと、聞いたら難しいと、言われた。二種類の石は、学校に展示してある様です。


2008年09月09日 石 27 2つ有る墓石

西鬼誉画形相信士、天保13年7月4日、小林彦左衛門、祖霊社の庭に、八良兵衛と、惣村中で作つた石が有り。南郷の観音川の井戸近くに、他の3つの石と並んで、前の道を見ている。同じ墓石が、2つも有るのは、島で亡くならず、海か、江戸で亡くなり、供養のために墓で無い場所に置かれたと、思われる。平成18年に、敬久が、観音川の供養地は、手を入れる人も無いので、コンクリートで、整備して、浜の玉石で、五段の供養塔を、一基作り、南郷の地が、先人の努力で栄えたの讃え、これからも同じ様に、栄えて行くように、願いを込めて置いた。


2008年09月09日 石 26 女の名を彫った石

タンタイロの森入り口、水源涵養林の天然石に、日付は、大正5年、4人の名がたてに有る。トミ16歳、ショウ37歳、サク56歳、サン60歳。石に十字を、刻んで有るので、涵養林の測量の手伝いでもしたのかな。年齢は、大正5年は、皆これぐらいで、おサンばぁは、60に成っても、仕事をしていたようだ。山に、石は沢山有るが、自然の石に、文字を、彫り込んだのは、この石だけだ。タンタイロの森は、観光ルートに成り、神山まで、歩く人が多いが、その中で、気が付きナンだろうと、思う人がいるだろうか。


2008年09月06日 石 25 何処にある 天ヶ石

テッペンにある石、御山の鈴原辺りに有ると、古老聞いて、何度と無く捜しにいくが、見当たらない。古老に聞くと、川口、御山から、黄楊桑材を、背負い来て、休息場所だと言う。石からは、一気に村に下りこむので、少し憩いの地。肩から背負子をはずし、石の周りに、老若男女それぞれに座り、乗っ来れば、踊りまで、出たと聞く。若い男女は、逢引の約束を、後家さんには、今夜の夜這いの時間決め、男女の集まる場所は、あまり無い、つかの間の時を、歌に踊りと、すごした。御山頂上辺には、石はほとんど無い、今は、通る人も無い、湿原の草のなかで、昔のにぎやかさを、思い出しているかな。


2008年09月05日 石 最後の墓石

流人墓地の中に、覚兵衛とかねの墓石が有る。どちらも明和7年に亡くなる。又善右衛門、まん夫婦も明和6年に亡くなる。善右衛門は、明和6年10月18日、村人5人と供に何かの事故で、亡くなる、島では、いちだい事件だったろう。当時は30戸が島の土地、社会を動かしていた。この2戸が、廃家となり、土地を万蔵寺に、永代供養に差し出した。寺は明治の始めまで、利用していたが、廃物希釈で、寺は無くなり、土地は村人に入札で、分けられた。祖霊社となり明治41年8月10日、140年の供養をしている。まったくたいしたものだ。おそれいります。



2008年09月04日 石 23 歩いた墓石

以前から、島内の史跡、石、墓石などを調べていた。平成12年夏御蔵荘の工事をしていた。たまたま、本沢が下、御蔵荘の入り口の所で、見たことの有る丸い石が、道端に転がつていた。一目で、神の尾墓地の墓石の一部だと分かった。大きさは、直径15cm、上下が平で、中心に、□の穴が開いている、五輪の塔の一部だ、傷が無く、コケが少し付いていたし、転がった様でないし、誰かが、故意に持っていった、不明だ。10kgも有るの運んで、台座に乗せた。苔の具合も台座とよく合う、間違いないと固定した。この塔は、前から二段しかなかった、都道工事で昔からの場所から、3mも山の方に移動した。何で道端に、有ったかいまだ分からず、私に石は見つかって、良かったのでは、ないだろうかと、一人で、思う。


2008年09月04日 石 22 家の下の玉石の道

都道で部落の中心地に入る、入り口に大きな玉石の石垣が、両側に100mほど続く。いきな設計者で、玉石の手前150mは、海岸の大きな玉石を、石積用ブロックに加工し石垣で道を作り上げた。玉石も、海岸で、拾い集める、20から60kgの石を、波打ちきわから車に乗せられる場所までだ。多分1個100円だったと思う。私ほか4人で3日で集めた。当時の日当は1000円ぐらい、1日1万円になった。明治32年、一人の犠牲者出したが、海岸から花田までの道が完成した。玉石も運び安くなり、雨が多く坂なので、土が流れるので、順次道や庭も。玉石が敷かれる様になつた。今はコンクリート、お墓の玉石垣も無くなり、玉石の道もなくなりつつある。


2008年09月01日 石 21 頭の無い石仏

江戸の六仏は有名だが、島にも江戸時代に、六仏を買つた記録があるが、運んで設置した記録が無いが、祖霊社に、頭の無い石仏が六体、四体は座、二体は立像台座を入れても1mほどだ。頭を、近くを捜しても見えない。明治四年、廃仏毀釈の教えで来た、役人萩原正平は、意図も無く、石仏の首を折ったと言う。お墓の墓石も仏像の部分を削り取られた物も幾つか有る。この時島は、しけがつづい困ったと言う。島の人達は首を取たせいだ言い、萩原しけと、言って悔やんだ。村人は、純粋だったんだな、、、、、、、


2008年08月30日 石 20 大根ヶかたの玉石

大根ヶかた、今は、何の気も無く浜に来て、桟橋に、そして舟揚げ場へと行く。本の40年前は、西の風が吹くと波によって海に持っていかれる場所だった。離島振興法により、御蔵も港が作られることになり、水野組と言う業者、その責任者が、森山栄作。現場からのたたき上げ、大卒の若い人が2人、後は自分の抱えの人達、俺は、まだ15だっが、この人は次郎長だと、思って、コンクリートの時は、手伝いにも言った。10年ほど仕事をして、他の会社に移るが、まだ島の港の仕事した。島を去る、何年か前に、大根ヶかたに、まん丸の玉石を、半分セメントで固めて置いた。カメリア丸を下船し桟橋を歩く、大根ヶかたにぶつかる、岩盤の中に30cmほどの玉石が見える。石も、風雨にさらされて、大分小さくなった。先人の仕事に、感謝したい。


2008年08月29日 木シリーズ 39 竹ジイ山の桑

かけま、旧道で、川田発電所から、つづら坂を登りあがり、実坂を通り、川田の川を渡り、かけまの坂を登る。新道と旧道が、一つに成る。ここの道の下、広さにして、100平方m。黄楊と桑が植えられていた。海側は、部分林、奥は源太郎沢の個人になる。この村有地が、何で、竹ジイ山呼ばれるかは、はっきりしないが、ボランティアか、それとも何かの罰則なのか。清左衛門山、治平山、どれも立派な黄楊山だったそうだ。昭和60年代に、都道の開設で、1m高さ3mの立派な木で、製材して倉庫に寝ていたが、開発センターの入り口、生産労働図の壁画の枠木なった。木を育てた人は、生産労働の絵に、木が使用されたと聞いたら、きっと嬉しいと思う。


2008年08月28日 木シリーズ 38 桐

桐の木は、成木になり根元より切り倒すと、株より新芽が、数本出て、これが又一人前の木になる。これを何代も繰り返す。島では、冬のササヨ釣りの浮きか、錨の引き上げ用の目印浮ぐらいで、あまり太く成らないので、家具などには、使用出来ない。桐油を採る話も、聞いたことが無い。徳山隆次兄いが、隆次下駄と言う下駄を、考案して作っていた。下駄は、二本歯だが、二本歯だが、前の歯は、先端までと、後ろの歯は最後尾まである。この下駄は、島の玉石の道、階段になじみ、滑らず、歯が石の間にはまらず、御蔵下駄と名前あげたい。今は木を利用する人も無い、紫の花を、初夏に楽しませてくれだけだ。


2008年08月27日 木シリーズ 37 ビラン

島の山を歩くと、大きな木の根元で、幹からはがす用に、鋸で切り取った切り株をみる。木は、タブ島名で、タミノキと言う。成長が早く初夏に、実を沢山付けて、カラス鳩や、ヒヨドリなどが、群がり食べて、種子を、島中にばら撒く。八丈では、黄八丈の染め染料に、樹皮を使うと言う。根元にこぶが出来る木で、大きい物は1mにも成り、人の背負うほどの大きさに引き割る。大きい木で、10枚も取れたと言う。主に玉杢が多く、マドロスパイプや、家具材に、出荷した。同じ木で、土の中の根の部分は、シャレ角と言い、土を落とし、木肌を出して、磨きを掛ければ、床の間飾りなる。見る方向によって、鳥になったり、花になったり、楽しめる。


2008年08月27日 木シリーズ36 消えた造林

大正時代には、多くの造林が、作られた。小学校同窓会楠の木、つかな。小学校林杉桧、登り立。中里青年団桑、日の本。在郷本村軍人会杉、七二木。在郷本村軍人会桑、長滝山。在郷軍人会南郷分会黄楊、陰松。大正4から8年に掛けて80年間、貸付契約したが、延長され無かった。部分林375筆は、30年の延長を、昭和55年にしたが、後少しで元に戻る。小学校林だけは。貸付期限が、付いていないが、今は村有林の様だ。御山手賭け石の所に明治43年に神田精研堂医院に、黄楊の苗を、2500平方mに植えて貸したが、御山で成育が、遅いのと手入れが無いので、今は山すら何処か分からない。造林面積は全部で、約100000平方m、昔の人は鎌と鋸で、良く造ったもんだ。


2008年08月22日 木シリーズ 35 木こりと弟子

島の銀座通り、中央線、その中でも岡道は、道の脇にベンチがあり有り、小さな広場になっいた。縁台将棋、浜からの休み場所、郵便局も行き帰り、大人の宴会場所、そこに二本立ちの松が、植わっていた。その向かいの、観音前にも逆Lの松が1本、太さは1m。どちらも、民家の屋根の上まで伸び、台風で、枝でも、折れれば、被害が出ると、切る事になつた。村中仕事で、木こりの親方は、斧吉兄い。見習いは、二十歳そこそこの節夫兄い。無事に切り終える。その後、尾平の大きなタブの木も切る手伝いを、したそうだ。観音前の木は、太いので、心が最近まで残っていた。昭和30年ごろの村の様子。


2008年08月19日 木シリーズ 34 アスナロ

本名は、いぬマキ。島にとっては無くてはならない木。柱、廊下板、床板、水に強いので風呂場材。磨くと綺麗な光沢がでる。碁盤、将棋盤、お餅をつく臼と島の、北向きに、多く自生している。6月2cmほどの赤い実を付けて、食べるととても美味しい。昭和40年代までは、人が亡くなり、葬式の碑日、朝早く女衆は、山へ行き、塔婆用にアスナロの木を1本切る。長さ6尺太さは、その人の個人差による。各家では、老人がいる場はいは、山に用意をして置く。男衆が、四角く柱に、しあげる。重いので、交代で、墓地まで運ぶ。神社の境内に、目通り1,5の木が、そびえているが、残念ながら、太さで、利島のお寺の木に少し負ける。


2008年08月17日 木シリーズ 33 シャートル

シャートル、機織の時縦糸の間を、クグリ横糸を作る器具。島の山には、もち、ヒイラギと器具を作るのに良い木が沢山有った。昭和11年には、東洋シャトルと出荷契約を、結ぶ。針山ヶ平で簡易工場を作り製材する。今でも、囲炉裏跡が、有り小屋の沖と言う地名になっている。製材し終わると、神社を越え、三右衛門山登り、川口の沢に工場を、移動した。豊雄兄いは、この時、エンジン背負が、三右衛門山では、重く肩に食い込み、川口の沢は、道が悪く急で、一歩一歩確かめて下ったそうだ。島でも、蚕を飼い機織も、盛んな時代で、西の沢住宅の所には、伝習所が有り、最近まで、レンガ作りの乾燥場があつた。


2008年08月16日 木シリーズ 32 千人切の伝四郎グミ

平家伝説で、鼠峠で老婆を血祭りにし、墓地ヶ坂で、鉈、鎌を持った村人と、武士達は、交戦した。武士らは、長旅と空腹で、力なく村人に、殺され、その数千人も居たと言う。人々はこの地に埋葬し松を植え供養塚を置いて、千人切りと呼んでいた。明治16年、この地を含め、水源涵養林、国土保安林、風潮防除林の境界を、切り抜くことになった。伝四郎グミが、はびこり、村人は、タタリを、恐れ、枝を切れずにいると、役人、竹内銀次は、ナタを振り上げて、道をふさいでいる枝を、1本切り、1本の枝を切る万人の力かなと言ったと言う。村人は、神山として島内十数か所の木草など、大切に、育てている。


2008年08月15日 木シリーズ 31 あおなら坂のあおなら

小島分の沢に入るルートは、海側の長坂、よむぎと、御山側のあおなら坂、木揚げ坂と二本だ。真ん中を。十個岩の崖が、尾根に沿って続いて居るからだ。ねずみ峠、登り立、あおなら坂、木揚げ坂。あおならの大きく一丈も有った木を、木挽きをして出したと、古老に聞いた。なだらかな坂で、黄楊の植林地、この中にそびえていたか。島に苗木は、多いいが、太いのがい1本、隣りの沢の、寛兄いの杉山に、1,5mもある木が有り自慢の木だ。兄いは、島で最後の炭焼で、1つ釜を、30年以上も使用した、これも大いに自慢して、いいと思う。


2008年08月13日 木シリーズ 30 あまもんヶ沢の桑

川口の沢には、神社側は、けわしく沢はないが、反対側には、上から、吉田沢、水無瀬沢、あまもんヶ沢と谷が多い。その中でも、水無瀬沢は、深く、源流は、美代ヶ池の近くで、直ぐに地下に潜り、神山の近くで湧き出手来る。あまもんヶ沢は、空沢だが、大沢ヶ上から、つちろの横をとうり昔山にぶつかる。沢の中ほどに、二人で回るほどの桑の木が、あった」明治の盛んに桑の木を切り出して、いた時は、細く、切り出す木を降ろす為の、ロープを、巻きつける木にしていたと聞く。昭和の時代島で、一番太い桑の木と言われていた。平成7年の台風で、大沢ヶ上から崩れて、大桑も流れ、行方不明に、なったままだ。今は、どの木を、日本一の桑の木しようか、調査中。



2008年08月09日 木シリーズ 21 投げ捨てられた招き猫

平成20年3月たまたま旧学校林への道作りと、林内の整備を、頼まれた。昭和20年代の初め、斎木校長のもとで、杉、桧を植え、学校管理していた。私、敬久も小学校の時、下草刈に行った。50年ぶりで草刈をした。大きくなった木は、台風で、めちゃくちゃだつた。その中で、桧を少しもらい、何かにならないかと思い、招き猫を、一匹刻んだ。胸の前掛けには、気をつけてと彫る。生徒や保育園児が、良く歩く、上町の交差点の横断の所に置いた。あくる日、その猫は消えてしまった。8月8日看護士の、西村さんが、海で泳いでいると、海岸のテトラにはさまれていると言う。投げた人は、置いた人の気持ちを、踏み握る。都道の記念碑の脇にそつと置いたのに。


2008年08月05日 木シリーズ 21 すねに傷を持つ松

2007年3月22日この松は、村道タリボウ線のつなぎ工事で、根元から切られ、楽になつたのでは、ないだろうか。樹齢90から100年。まだ若く50代のころ、家主も若くお酒を飲むと、さらに元気になり、僕等の子供のときは、とてもこわい人存在だつた。何の気に触ったか、屋敷の入り口に有る松、斧を持ち出し、西側1mの高さの所にきり込みを入れた。家族に、止められたか、自分で、やめたか、本人に聞けずに終わった。倒された、木は径は1mにもなり、枝も四方に広げ、隣りの日よけにも、なっていた。傷は、深く中心近くまで入り、根まで10cmの穴が抜けていた。今は、松の有った上を、車が、ひんぱんに登り下りし、すねに傷を持つ松は、本人と何かを、語っているかなー。



2008年07月30日 木シリーズ 21 黄楊の碁盤

黄楊の木は、成育地で、50年で10cm、山が高く成るとさらに遅くなる。100年を過ぎると、中心は、養分が行かず、腐りが入るようになり、形成層のみで、大きくなっいく。明治25年1月、美代が池の畔に、斜めになった巨木が有って、これを切り、東京の碁盤士に作ってもらう。盤の厚さは2寸、1面は1尺3寸8分、何面かとれたようだ。島の生き方を、解いた演説大意の作者、吉永経和が、黄楊の碁盤記として残してある。この木は、1000年以上池のそばで生きていたんだろう、今この、盤は何処にあるだろうか、一度見て見たい。


2008年07月30日 木シリーズ20 水穴のカミナリ松

島では、神社、仏閣、名所、旧跡には、たいがい松が植えられている。水穴の尾根には、江戸時代、航海中や、江戸などで亡くなった人達の供養塔が、建てられその中でも、ひときは大きい、栗本廣吉が建てた、内外での、溺れ死んだ人の供養塔。ここの尾根にも立派なが、そびえていた。明治30年6月17日、東風、大雨、大雷が松に落ち、焼けてしまった。この松は、昭和40年都道拡幅工事で、掘り取られるまで、75年も、尾根に葉が無いが、焼けたカミナリ松として、下の供養塔を、見守っていた。今は、隣りのカーブの地に、西川豊雄兄いが、植えた松が、2代目として、立派に、役目を、つずけている。


2008年07月28日 木シリーズ 19 たかの子1本松

たかの子の沢は、長滝山が、途中切れ断崖と成り、いつも崩れている。昭和45年までは、崖の途中を歩いていたが、崩れ、長滝山まで登って、南郷まで通うようになった。たかの子の沢は狭く深く、波打ぎわの、崖に、1本松の木が、植わっていた。海抜20m、スバル根のおか。遠い昔、ここを浜に下りる道にしていたその時誰かが、植えたのでは、ないだろうか。島で、浪打際で、太さ70cmの木が、よくぞこれまで育ったものだ。平成に成り台風が、ひんぱんに来た。沖の定置網が、流され、松も枯れてしまつた。平成10年幹だけ残っていたが、倒れ今は、位置も、松の植っていたことを、知る人も少なくなった。


2008年07月26日 木シリーズ17 御山たこ

本名、山車、照葉樹で葉は全て明るい方を向き、上に伸びず横に枝を広げる。幹は、短く根が、地下より伸び上がり、蛸のようだ。明治30年良質の鳥もちが樹皮より取れるので、中島金平に3年の採取の許可が出た。南郷栄川、里西川、大島分川の川田に、遺構が残っていて、石垣にコンクリートを塗るだけの井戸だ。樹皮を、漬け込む為。川田には、2箇所有り、1箇所は井戸が、大小6つも有り、川から水を引き、水車を回し、杵を4つも動かし作業をしたようだ。昭和32年、村の一大事業で、ペルトン水車で落差210m、1200mの送水菅、50kwの発電をし、村の生活を明るくした。


2008年07月16日 木シリーズ 19 私設防風林

大沢の誠治兄いの防風林。ごんじり越しの源次じいの防風林。もとほその彦左衛門の防風林。西川の仙松兄いの防風林。明日山の粂三郎の防風林。ならん川のおもよんばあぁの防風林。峰に松と言い境界に、松を沢山植えたが、後の手入れがいきと届かず、2,3本しか残っていない、隆次松


2008年07月16日 木シリーズ 18 私設防風林

個人で、大きな防風林は、長沢の道下、北東の風避けに、滝下の尾根84mに、最大50cm、33本、2から3mで地主3戸の山にまたがり植わっている。下から△、○二、山十の3戸の土地、○二の小三郎、山十の捨次郎は、大正3年の灯台木を、植えた仲間で、この時代に、植えたのは無いか。特に○二の山には、下畦に4本も木があり、息子の仙松は、名前のどうり、各所に、松を植えている。この並木の、滝下側に28本最大でも15cm、痩せてヒョロヒョロした木があり余り、手入れが、出来なかったようだ。この松は、仙松が、植えたと言われている。


2008年07月15日 木シリーズ 16 灯台木

鳥の尾の松が、枯れた。今は、gps、無線などが、有り、無くてもいいだろうが、、、先人息を、感じ敬久が、音頭をとり、舫い丸の乗組員、彦作、大器、吉一で、枯れた松の隣、旧道の坂道に、30本、地主にお願いして、植えさしてもらった。切り抜いたら、桟橋から、島に穴が,あいた様に見えた。平成10年、島の石に銅版を、はめ込み、真似をして、漁が出来きる喜びの歌も書いてしまった。下刈りを、時々忘れ、今は10本、大きい木は、10cm高さは5m、周りの、木達を、越して灯台木と、成るのは、まだ予定も付かない。


2008年07月15日 木シリーズ16 灯台木

昔から、やまてを見ると言い、島の木、沢、尾根目標を定めて、漁に、航海などしていた。鳥の尾に松が有り、江戸からの帰り目安に、大事な木が、枯れてしまった。大正3年8月10日、学校長、吉花金吾氏が音頭をとり島の若衆、捨次郎、小三郎、など何人で、松を植えて、記念碑を、鳥の尾の旧道に建てた。標高250mの山に1mも飛び出れば、良く目立った。昭和60年になり、最後の1本が、枯れて見えなくなった。太さ40cm、歌を詠んだ、記念碑だけが、残った。



2008年07月06日 木シリーズ 15 むかいが尾の松

鉄砲場から、丸池が尾の不動様まで、約250mに62本、ほぼ1列、尾根の頂上に黒松が植えられている。地主は10人ほど、枯れている木も有り2列の所も見える。何の目的で、何時植えたか記録が無いので、分からないが、鉄砲場で、都道新設工事で、1番、2番、3番と太い木が切られた、太さは85,90,70cm、1本切るのに100万も支払いをしたと言う。保育園の木は。1,2mあり、どちらも切らなくても、道は出来る様に見えるが。、、、年輪160年にどの木も見える、江戸時代の終わりごろ、南風の颪が、心配で、植えたたか、今は、村から良く見える、立派な松並木で、見事だ。


2008年07月06日 木シリーズ 13 ソテツ

シンパクと同じ様な時代に、ソテツも御蔵き、同じ様に稲根神社と水池観音に、植えられたようで、神社のソテツが大きかったが、やはりシンパク同じで、火事で,あぶられ、一命は、取り留めたが、元気がなくなつた。これらの子供が、1本から2本立で、島の神様と呼ばれる、場所に植えられている。文昭、一郎さんのトシャマ、祖霊社、観音前の木が、これで。あとは100年から200年の木で、各地主様に何本かがある。昔の中学校の校庭に、1本植つていた、新しく学校 が建て代わり校門に左右に1本づつ、植えられた。1本は、何処から来たか、調査中です。


2008年07月05日 木シリーズ 14 いちょう

嘉祥3年849年伊豆国伊太豆和気命授従五位下、の記録が、稲根神社には残っている。以前は富賀神社とも言われていた。鳥居をくぐると、右手奥に太さ1mも有るいちようの木が、少し拝殿側に、傾いているが、立っている。内地では、母親が、乳が、沢山出る様にとこの木のようなオッパイが、いっぱい有る木にお参りをすると言う。御蔵でも実施していた人が昔は、いたかもな。もう1000年を超える、年齢なのか、根元の左側に穴があき、奥に傾き、タブの木に、枝があたつてしまった。まだまだ元気で、母親の願いを聞き、下の保育園にて、多くの子供達の声を聞かしてくれ。



2008年07月04日 木シリーズ 12 赤沢神社の記念樹

明治39年1月28日、時の地役人堀田正夫は、島の偉い人達を伴いう、重教、美之吉、敬助で、赤沢地方の視察をした。卯辰川、向、鉄砲場、西川、竹下、足川、長沢、権田沢、大沢、赤鉢、鳥の尾沢下、大南郷、大番の尾、検見、矢平□、塚名坂、ボロ沢、滑川、家の沢、大船戸、平垣戸、川流れ、一華の表の道順で、神社に参拝した。道道説明を受け、堀田は、土地利用で、産業に結びつく話を、といた。お参り後、欅を記念に植えた。島の人も、何かの木を植えたと言うが、現在、杉の木が2本、宮の前に植わっているだけだ。欅のきは、枯れてしまっのかな。神社の平2町歩を田んぼにして、お米を作り自活をとも、話した。敬助は、私の、おじいさんで、島民総代をしていた様だが、話を良く聞いていな様で、その後の島の発展が、見えない。


2008年07月03日 木シリーズ12 足川の松

足川、稲根神社の本殿のお祭りで、参拝者が、帰って来るころ、社務所より人が出、小麦粉を、ねじり煮た物に、黄な粉まぶしたのを2個いただける。これは伝説にもとずくもので、その昔遠くで、鈴の音が聞こえ、其の音旦那さんが、捜しに出かけた。奥さんは、お腹を空かして来るだろうと、ここでねじり団子を用意して待つていたと言う、そのなごりのようです、この地は、v字の谷で、道も狭く大変ので、明治28年3月26日海側と山側に、石垣積みダム状にして、歩きやすくした。落成記念に、沖側に松を、5本植えたと言う。昭和40年代林道開設により、道は、大きく海側に振られ、松は全部切られた。今は歩き易いが、松が、ここに植わっていた事を、知る人は、ほとんどいなくなった。


2008年07月01日 木シリーズ 11 ビャク杉

本名シンパクだと思う。稲根神社の鳥居の左側に1本と水池山観音に1本、島に2本あり、三宅の神着の壬生家に1本多分、3本は兄弟か、親戚と見られる。神社の木は、昭和20年の学校の火事で、炎にあぶられ枯れた。有る人が、木挽きして出荷しようと浜に出したが、波に流され、神本だからと言われる。水池の木は平成7年の台風で、西側に倒れ、神木だからお宮つぶさ無かったと、家主は、木をそのままにしたので、年輪を見ることが、出来ず。木を、植えた当時は、三宅からも人の行き来盛んだつたろう。印鑑を、取られる前で、年輪は、おそらく300年は、あるだろう




2008年06月30日 木シリーズ 11 黄楊

江戸時代より昭和まで黄楊は、御蔵の生活の糧だったが、今は、需要がほとんど無い。昭和の始め7年ぐらい村中で、村有地を借りて、植林したが、その後はとだえた。その中で、天然の黄楊が多い地区を指定、雑木などを切り払い、黄楊林を作った。栄が川の源流で、美代が池への降り口と、馬の背を降りて、川口への降り口、どちらも、御山で地形は同じようだ。その後、尾番の尾の頭で、ボロ沢向きを、下刈りして、林にした。良い親木が何本か有れば、種が飛び散り、苗が沢山出来る、この地域は、大事にしていきたい。天然更新は、もう50年も前の作業になる。


2008年06月30日 木シリーズ 11 ゆす

ゆす、島の限られた場所にしか無い。大川の八三郎山の近く、小島分の葉細の周り、板木沢の3本杉の周り何れも、沢の中で,海抜500mのラインしか無い。種子も沢山実りが、現地には苗が多い。材は、少しピンク色で硬く加工しにくい。葉細には、太い木が多いが台風で、直径1,3mもあつた親分が、ひっくり返って枯れてしまつた。小川の橋の所に松と一所に植えてあるが、この木は防風林のよう。葉は全部でないが、虫により内部が、ふくらみ中身の無い卵のようになる。これを取り上部を少しかきとる、口に当てて、吹くとホウ、ホウといい音が出る。別名を、ホウの木と呼ぶ。島では、ホウの木が、本名


2008年06月29日 木シリーズ 10 黄楊の記念樹

昭和の始め、黄楊の2大産地の御蔵と、鹿児島の黄楊生産組合が、出荷、生産等について、話し合いがもたれた。その時、九州黄楊2本と、御蔵黄楊1本が、卯辰川の蔵屋敷の中、ウバメカシワの奥に3本、1m間隔で植えてあった。手前2本が九州黄楊、2本供真直に伸び、葉は細かく、照りが少なく、木の肌も白くなく,くすんでいた。昭和60年ごろ、手前の木が、葉を落とし枯れる。15cmにも太く成っていた。次の木も10年ほど前に立ち枯れ、誰かが、セッコクランを、縛って在り白い花を付けていた。御蔵の木は10cmでくの字曲がつているが、元気だ。部落の中の太い木は、葉巻き虫などで、ほとんど枯れて、無くなった。以前は,庭木に各所で見られたのに、山に見に行かなければ、黄楊の話は、出来ない。


2008年06月28日 木シリーズ 9 杉

島の各所、道の端に、杉の木が何本植えられいる。澪が淵の平清水川の源流に、20cmが3本。板木が沢に3本、19年の台風で、太い2本が倒れ、15cmの1本が残る。川田の水源に、まわるく何本か、植えたみたいだが、枯れて木が多い、太いのは50cm、高さ18m。新助じいが、植えたんではないか、と聞いたことがある。針山が平の逆さ川の側に3本有っが、平成10年最後の1本が、倒れ無くなる。昭和4,5年の部分林を作る時に植えたか。水道で、行曲沢川の源流、水の取り入れ口に、3本、太さ15cm昭和30年代の工事の記念樹の様。ここは、御山で、鈴原のすぐ横にある。


2008年06月28日 木シリース 8 楠

村の産業奨励、明治30年2月16日。島の百姓家に1戸に楠苗40本を渡した。楠の木は、葉から樟脳を、とることが出来る。当時、川田の沢の村側、小島分川の村側は、植賃山として、各戸に少しづつ区分けし貸されていた。桑、黄楊、楠、こうじミカンなどを植えた聞いた話だと、川田に工場が、在り余り葉取らずつづかなかったようだ。つかなが坂には、学校同窓会が植えた木が、何本か残り、各所に残る木は、春遅く赤ぽい新芽が、緑の中に、良く目立つ。一番多く残る山は、七ニ木で、10本まとまり、太いのは、直径1mも在り見事木になっいる。


2008年06月28日 木シリーズ 8 記念杉

明治32年1月12日、俊吉地役人、加賀美巡査、年寄弥惣兵衛、名主近蔵、村の偉い人達が、南郷から川口を視察した。その時川口の昔山と、神山の入口に杉の苗を植えた。昔山の杉は、昭和30年代川口の沢を、台風が、叩きつぶした。その時神社からの道も無くなった昔山の杉は、太さ40cm、長さ20m、川並んで、寝ていたの、60年代若衆が、キャンプに行き、燃料にした。1本だけ,お宮の前に、桑の中に残っているが、少し曲がりがあるが、元気だ。原生林の中に、杉が、1本根元に行かなければ、分からない。年輪は、おそらく110年以上あると見る。


2008年06月25日 木シリーズ 7 椿

村の産業奨励で、大正2年4月18日利島より3000本の椿苗を、運んで来た。古老の話だと、注文が多くて、間に合わず、山取を、入れてきたと言う。良い苗の実は赤ゴウロウと言って、木の枝先実を、沢山付け太陽で日焼けし、赤く見事だ。山取り苗は、島の御山にも有るが、実をあまり付けない。各家に80本ずつ配布し、それぞれが、開拓地の赤沢、島分、南郷、長坂など、自分の植えたい土地植え付けた。赤沢は、植えた面積が一番広い、親が木に登り実を採り、下で子が、石の上に実置き、木槌で殻を割り、重いので種のみを、背負って帰る。今でも椿山に入ると、平たい石が、何個か転がっていて、叩いたのを、思い出してなっかし。


2008年06月24日 木シリーズ 5 ちぎの木

伝説、南郷若いちの神山に、直径1.5mも有るちぎの木で、高さ20m、周りの椎の中でぐんを抜いて、大きかった。伝説では、母親は子供が余り泣き止まないのでこの木の根元に、子を置いて家まで帰ったが、心配になり、引き返して見るが、子供の姿が無い、村中で捜すが見当たらない。その内誰かが、木の上を見上げたそうしたら、テッペンに頭、各枝には手、足が、バラバラにされて、掛けられている。その有様を見た母親は、気を失い倒れてしまった。平成10年南郷を、襲った台風で、根元より2mの所より、引きちぎられる。こんな太い木が、折れるとは、母親の祈り今通じた。


2008年06月22日 木シリーズ 5 葉細

神畑の尾は、御山から海岸の崖までつずく、島で一番長い尾根で、大島分川の沢と小島分川の沢を、分ける尾根。上から御山、三亜、黒岩屋、葉細、実坂、ムガキュウーで崖になる。葉細地区は、今の都道から上で、太くなっも10cmの小木が、沢山あり、葉が夾竹桃の様に細く、材は硬い。この木が沢山あるので、葉細と地名なった様だ。材は、別名を、牛殺と言う。ムチとして使い、細くても丈夫で、あまり牛をたたくと、死んでしまうと言う。春には、小さな花付け、秋には、大豆ぐらいの実をつけるが、この葉細地区にしか、育っていない。




2008年06月17日 木シリーズ 4 かや

西川砂防ダムの上流100m、山一印の椿林に、太さ60cm高さ10mかやの親木が、あった。親木は沢山実付け、都道まで、苗木を出させた。実は、紫色に熟し甘い香りがする。鳥が食べないのか、親木の近くしか無い。このかやも、地主が、碁盤でも作るつもりで、植えたのか知れない。この親木も、度重なる崩れで、流され、ダムも大きな物を2つも作り、苗、小木ほとんど無くなってしまった。他の山に、杉やヒノキと一緒に、植えて在るが、余り成長が、良くなく、杉の下になって、しまっている。


2008年06月15日 木シリーズ 3 うばめ樫

御蔵に現在太い木は、2本ある。昭和40年には、村の真ん中三印の本家の前に、1本植っていたが、都道の開設で切られてしまった。1本は、大川。1本は卯辰川の近くで、直径1m、高さ15mもある、立派な木だ
木は、備長炭になるほど硬い。江戸時代、島の舟が、凪待ちで、伊豆下田港かで、地の漁師に、硬いのでろの杭に最良木だとおそわり、種か苗をはるばる運んで植えた。与左衛門と助左衛門の山にあり2人供、船乗りなのか、江戸に出る機会が、多く、御蔵には必要と見た。その後舟の。ろ杭として何年も利用された。ただ春に新芽と花をつけるが、雄木なのか種子ならないのが、残念だ。


2008年06月13日 木シリーズ 2 油桐

また小川の沢で、竹林の上、△印の榊山の上部に、2本並んで植わっている。太さは、直径20cm、高さは7m、下側の木は、沢を向かって伸びている。木肌は褐色、葉はアカメカシワに似ていて、花は2cm、5弁100個ほどつける。沢下の、都道でも良く見え、緑の中に引き立つ。油桐は、桐油が種より取れるので、地主が、内地より持ち込み植えた、鳥が運ぶには大きすぎる。風が,あたり上部の木は、枝が沢山折れて、今にも枯れそうな状態だ。花の多い割りには、種付が悪く、まだ島には、2本しか見当たらない。


2008年06月12日 木シリーズ1 はぜの木

小川の啓次郎の腰掛石を、真ん中に70m手前に2本、50m先に1本植わっている。先の1本は、直径40cmもあって
秋には、紅葉し実を沢山つけたが、しんせい橋の架け替え工事切られ、今は根元から、細いのが3本、弱弱しく伸びている。この山は、甚吾あ兄の山で、あ兄は、島に、色々な物を最初に、持ち込む、懐中電灯、砂糖キビ、このはぜの木も、ローソクを、作る為に、内地より運んで、自分の山に植えたと見られる。種は沢山実るが、発芽しにくい。他の2本は、子供のようだ。秋には、3本共紅葉し、小川の沢を、にぎやかにしてくれる。


2008年06月09日 無いはずの墓石

流人には、墓石を、作る事が出来ないが、坊さんに戒名をもらう事が出来た。島の人が亡くなると、戒名をもらい、江戸に墓石を注文し、年に1から2回の舟に乗せてくる。良く戒名など間違っていない。俗名彦兵衛は、1774年12月9日無くなり春山信士の名をもらう。記録によれば、子供が3人居たとあり、流人に妻や、子供が、いるのは珍しい。山の石で、俗名彦兵衛と刻む石が、流人墓地に、転がっている。この石は、子供か、子供の母が、誰かに頼んで、刻んでもらい、墓石にしたか。流人の墓石は、無いのに、親思いの、子供たちだ。今でも、子の血が、島に流れているかもしれない。


2008年06月09日 まったく何も無くなった石

昭和3年8月12日母つや子は、南郷より献上品の桑材を背負い、生後6ヶ月になる、松江が腹を空かしていると帰りを急いだ。桑背負い出しは、朝夜明け前に、家を出る。長坂に来た、旧道は近いが、崩れて危険なので迂回路を、作ってあった。母は急ぐあまり危険な道を歩いた。長い材が、壁にあたり、道より外れ300m崖を落ちて、海岸の玉石の上にあつた。その後妹、多鶴子は、迂回路の海側に、小さな石を置き、山の行き帰りに、サカキ、を供えていた多鶴子も、無くなり、大規模な道路工事で、何も無い。今は、知る人も少ない。


2008年06月08日 故郷に帰れなかった石仏

従玄猛唱信士、慶応2年6月2日、22才で亡くなる。この石仏は、大沢の道上に、置かれていた。島の古老の話だと、親戚が石仏を、故郷に持ち帰る、約束をし、お土産など送ってきたと言う。ところが地主の親子が、気が変わり、送りださないと、言い出してしまった。子孫は、引き取り来れなくなっしまったと言う。形も小柄で、優しい顔だ。元の場所にも戻らづ、地主の庭に、しばらく置いて在ったが、今は、ヘリポート脇で多くの石仏等と、並ばされいる。


2008年06月05日 石碑  平松藤之助

明治42年三宅島神着の、前田文之助が御蔵の桑の木買い、木挽きの、井上喜十郎や平松藤之助ら何人を連れて島の桑木挽きした。藤之助の孫の高文さんが、御蔵に仕事に来て、おじいさんが、南郷で石碑を建てたと言う話をきたと言う。敬久が南郷方面を捜すが、里が道の登る口、札の尾墓地に、道しるべに二枚石碑ある一枚は素人彫りで、これより右とあり。もう一枚は、右ハ水の沢と少し上手に彫られ二枚並ベて置かれてある。何でここに同じ様な石を、二枚も置いたのか不明でも、この、どちらかが、藤之助の作と見ることにした。


2008年06月04日 墓石を取られた遺体

明治30年5月麻疹が流行、18名も亡くなる、大事件が起きた。麻疹が変じ、赤痢となり、タンテーロの炭小屋を、隔離小屋にして、女の子を、隔離したが亡くなる。神の尾墓地の沖の平らに、2.4mの穴を掘り埋葬し石碑も建てた。何十年経って、○○兄が、山の中で一人では、寂しいだろうと、墓石を、隠居の墓に移した。私も、何でこんな山の中に、墓石が建て有るんだろうと思っていた。○○あ兄は、墓石が、転がっているだけと見たんだろうな。女の子の墓の位置は、今はわからない。神の尾墓地の中だから、まあ許せるか。



2008年06月02日 神社の雪隠

以前は、晦日の夜とか、本殿の参拝前日は、おこもりと言って、社務所にて、一夜明かしたたと、言う。病気などの有る者は参拝出来なく、見送るそうだ。社務所には、煮炊きする、囲炉裏は、作られていたが、トイレは無かった。トイレは、奥の民地の近くに、ただ石を二つ並べただけの、ものが有る。家も、壁も無く足のり隙間が開いているだけ。今では、恥ずかしくてとても出来ない。でも、おこもりは、夜で暗いから、皆出来たかな。


2008年05月31日 祖視守と名乗る石仏

神の尾墓地で、小中学校の入り口に、座っているが、台座を入れても70cm、浜の玉石で、刻まれた石仏が1体入り口を向いて、座禅を組む。道路が狭くカーブ、大型の車だと道幅いっぱい、危険だ。敬久が、自分の子供も学校に通うし、島の子供達が、交通事故に会わない様にと願いを込めて、村に頼んで、設置した。文面は、交通安全守護。名前は、ここはお墓、自分達の先祖のおじいさん、おばあさんが、見守ると言う意味で祖視守さんした。眼を、閉じているが、背後の先祖のテレパシーを、歩く子供達に、送っている。



2008年05月31日 光竹院の墓石

光竹院は、流人だが三宝神社の祭神の一人。三宅より独立に多大な力を、つくした。1714年来島1719年没したが、たった5年の短い時間の中、島の人々の苦しみを救った。亡くなる時江戸を向けて埋葬しての言葉に、お寺の畑地で、のぼちの尾根で江戸が良く見える地に埋葬した。お寺は無くなり、畑は、個人の所有になる明治34年、島の石碑の多くを、刻む、伊豆の国の鈴木文之助が、墓石をなおすとある。現在の神の尾墓地の一番上に、舟木山の石に奥之山交竹院墓彫り、改葬したが、今は、部落の方で西向きに、立てられている。


2008年05月29日 打ち壊された石

戦争が終わり、御蔵にも米軍が調査に上陸した。神社の入り口にある、昭忠碑見て、米国の思考に合わないから壊し撤去しろと、言われる。東京に戻るも、壊したかの催促、仕方なく壊した。日露戦争に八行き三人の戦死者出した、殉難者を慰め、従軍者の功績を讃えて、村中で明治39年立てた。平成3年散らばる石を集め敬久が、文字が読めるように組み立てて、境内に寝かせてある。碑の周りに玉石を鎖でつないで、何個か立っていた、偶然か、鎖の付いた玉石が、碑のあつた元の所に、階段の一つとなって見える。



2008年05月27日 力石

何処の地域にも、若者を鍛える為神社、お寺に力石があるの良く見る。御蔵の神社にも力石と見られる石が有る。浜の玉石で細長く持ちやすいく、上側に二十三貫メと、下側○○中と彫りこまれ、沢山の人達が力自慢したのか、字が薄れ読みにくい。もう一つ寛保二年江戸元大阪町の商家が奉納した石が隣にあった。明治19年に栗本一郎が元大阪町の□木へ買い物行った記録があり、江戸時代より100年以上も、こんな小さな島と付き合いが、続いていたとは、御蔵もたいしたもんだ。




2008年05月25日 御蔵島の墓の墓石

青山霊園の一角に御蔵島の墓と彫りこんだ墓石が立つ区画有る。御蔵島村が都から明治から借りいる。墓石は、神社階段などに使われている、舟木山の石で、明治14年8月に栗本一郎が改葬幹事で作られた。側面に明治39年個人名を彫り込んだ人がいた。台座の部分は柔らかくて、作成の経緯や享保から明治まで、東京で亡くなった二十名改葬した記録が書かれているが、読み取りが無図化しくなっている。今は、多くの墓石が、立って、御蔵島の墓石はきゅうくつそうだ。


2008年05月25日 手賭け石

御山への旧道で神社から登り紅葉川をすぎ個人山抜けて精軒堂の黄楊山をこし大川渡ると斜めになった大きな面を道に向けた大石会う。坂道なので、手をついて登る,丁度その手を掛ける所に5本指が入る穴があいていた。面には、多くの人が名前を書いてあつた。平成7年の大崩れで、20tも有る大石が50mも下流に、流されていた。何で手賭け石かと、分かったと言うと名前が、いくつも書かれていた。旧道は、手賭け石より下は、大崩を起こして道はほとんど流れて残っていない。 


2008年05月24日 腰掛石

1822年12月29日近藤啓次郎に名主政次郎は殺害された啓次郎は八丈島の流人で、事件を起こし島替えで御蔵に来た。里で食べ物で問題で名主殺害、村人に追われ小川の地まで来て逃げ切れないと石に座り観念した。石より下100m小川の川の間に墓標らしき物が残されいる、ここで処刑されたようだ。道路工事で石が無くなる。道路管理の正義さんに、歴史の史跡だと言って、沢の下から引き上げ道の山側に設置した。名主政次郎の戒名は堪忍誉忍山信士、啓次郎は、墓も戒名も無く有るのは島替えの文章と、苔におうわれた石だけ。 


2008年05月24日 入道どんの岩屋

上西川で旧田印山林、今は西川砂防ダムの中側に南北に5m横幅3m高さ3m、重さ100tmも有る大石有る。石の下は1mもの広場があって、入道が寝る所と言われ、子供時山に薪を取りに行くとこわくて、しょうがなかった。ダムを作る時、都道の所に公園作るとの話なので地主としては先祖代々大事にされた石なので、公園まで持っていって安置してくれと頼んだが、重くて大きいので動かせないと言われ、がっかりした。今は、ダムの中洲で土砂埋もれ、入道も寝る所が無くなって困っているだろう。





2008年05月22日 忘れられた石  3

明治45年5月海軍陸地測量部は花田に水準点を、御山、尾番の尾、長滝山に三角点を置き島を測量した。昭和54年5月国土省は新たに乙女峠をいれて7箇所に4等三角点入れて、地籍調査に利用されていった。54年の記録には花田の水準点は記載されてない、明治から大正、昭和と花田の地で島の文化、生活を見守つてきた。今は土に埋まり人々の足音も遠もいて静かだ。


2008年05月18日 御蔵の石貨

明治29年三井の帆商船大喜丸が、カロリン諸島からの帰り赤沢鼻に座しよう、乗り組員10人中のメイランド人の道具と貝を祖霊社に奉納した、中に30cmの石貨有
、昔鳥居にかかつていた話を聞いた事あった。産業センターを掃除していたら、3つに割れた大理石の板が転がっていた、話をきいていたので、これはたぶん南洋のお金、何でここにあるのか、知らない人はゴミとして捨ててしまうだろう。祖霊社が台風で潰れた時に不明になったのだろうか。石貨は、南方では、今でもお金して使われているそうだ。


2008年05月14日 おいしの沢の夫婦石

旧役場のあった地は本沢が下、その上をのぶじ、その上を本沢、沢が少し変わるが本沢が上となる。本沢が上の上部で、沢の中ほど大きな石が二つ並んで、間は10mほどだ。山を見て左側の石は20tほど大きく定家かずらに、フウトウかずらがからみつき石の上部には、いぬびわ、紫式部が植わり、まるで毛むくじゃらの大男のようだ。右の石は、15t全体に丸くかずら類なく、ただ下から30cmの所に大きさ15cmの穴が西から東へぬけている。まるで夫婦のように見える。奥の田印畑を大石の沢と呼ぶ人もいるが、ここはごんじり越しだ。


2008年05月13日 御立ち 岩

平成10年大水凪鳥の観察に礼宮様が来島された。帰りはえびね丸、大根潟から桟橋まで大漁旗を30枚揚げて見送る。再び来島を知り、前回観察したカケマの地までクレ-車で1tも有る玉石を海岸より3個運び設置した大島分川の沢を一望し夕方岩に上がり、大水凪鳥の飛来を観察されたを担当者に聞き、石を置いてよかった島には、なこうに御歌碑  カケマに御立ち石     平成17年12月 婚約おめでとうございます
  
  




2008年05月10日 災難に遭った石仏

昭和60年ころ都防災無線施設を作るにあたり都道の法面切り取り工事していた。法面には地蔵1体石塔1基石仏2体が安置されていたが、仮置きした所に1体無いのに家主きずく、業者困り土捨て場行き崖を降りて土まみれ、何人もで半日捜し土の中からやっと見つけだした。法面は石がなく土なのと、気ずくのが早いのが幸いした。石仏を今作るのがむずかしいと必死で捜したと言う。 嘉永2巳年4月9日 教誉志傳清岡信士        清太郎を改め傳兵衛           御蔵島外、江戸方面で亡くなった人



2008年05月05日 おばんの尾

おばんの尾は、前浜の沖も見える地で、100mほど下ればスサキの沖も見られる。
尾とは出っ張った所、とりの尾・みざなの尾・西川の尾・丸池が尾と、外に向いた所が見える地を言うようだ。江戸時代、北東の風の時はスサキの浜を見るのに重要な地ではなかったか。
下に100mほどいったスサキの沖が見える所は、検見と言う地名もある。この地は浜までいかなくても様子が見えるので、この地名がついたのではないか。
それにこの地は中国方面が見えるのか、戦争で亡くなった人たちの供養地であり、オヤエ、オヒョウ、オキヨ、オソウが帰り道にサカキを供える場所であった。
自分はオヒョウんばあに山の帰りにサカキを供えるのに何回かやったが、今は道も変わり、松も枯れて、この地は忘れさられるようだ。


2008年05月03日 ミカの木

 昭和六十二年、川口に明日葉の種を取りに行った。
御山からの本道は利用されていなかったので新たな道を見るため、南郷から川口に通っていた道(大沢が上〜羽切平〜あまもんが沢)ではなく、美代が池〜大沢が上〜あまもんが沢のルートを行く。美代が池には南郷道路が作られた為学が沢の源流まで道ができて近くなった。羽切平を探すが平という所が少ない。道もほとんど分からない。所々に畳一枚程の広さの所はあったが。
偶然、坂の真ん中ほどだろうか「マコ」とナタで彫ってあるタミノキを見つける。恐らくこれは誠兄いが親を迎えに来て彫ったのだろう。その時ミカと一緒に下っていたので目印にと同じタミノキに「ミカ」と彫る。
その後、大沢が大崩れを起こし、あまもんが沢の大桑も流れてしまった。
平成七年二月、道雄兄いが目印のタミノキを見つけ写真をくれた。